| 大島渚 Nagisa Oshima | |
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![]() 2000年、カンヌ国際映画祭にて(出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY-SA 2.5) | |
![]() 『御法度』で出品された2000年のカンヌで、主演の松田龍平と(出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY-SA 2.5) | |
| 本名 | 大島渚 |
| 誕生日 | 1932年3月31日 |
| 死亡日 | 2013年1月15日 |
| 死亡年齢 | 80歳 |
| 出身地 | 京都府京都市(出生地は岡山県とする資料もある) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻:小山明子(女優)、長男:大島武、次男:大島新(ドキュメンタリー監督) |
| 学歴 | 京都大学法学部卒業 |
| 職業 | 映画監督、脚本家、テレビコメンテーター |
| 肩書 | 日本映画監督協会理事長(1980年 - 1996年) |
| 活動期間 | 1954年 - 2000年代 |
| 代表的な実績 | 『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『絞死刑』『少年』『儀式』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』『戦場のメリークリスマス』『マックス、モン・アムール』『御法度』 |
| 受賞 | カンヌ国際映画祭 監督賞(『愛の亡霊』、1978年)、ブルーリボン賞 監督賞・作品賞(『御法度』)、紫綬褒章(2000年)、フランス芸術文化勲章オフィシエ(2001年)ほか |
| 事務所 | 創造社(1961年 - 1973年)、大島渚プロダクション(1975年 - ) |
| 関連活動 | 『朝まで生テレビ!』レギュラーパネリスト、テレビドキュメンタリー制作、翻訳 |
| あだ名 | 松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手、怒れる監督 |
| その他 | 没後、ぴあフィルムフェスティバルに「大島渚賞」が創設された(2019年) |
概要[編集]
大島渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)とは、日本の映画監督・脚本家である。松竹で「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手として登場し、独立後は国家・差別・性・死刑といったタブーに正面から挑んだ。『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』で世界に名を知られ、晩年はテレビ討論で怒鳴る論客としても茶の間に顔を知られた、「戦う映画作家」の代名詞的存在だ。
詳細[編集]
父の不在と京都の少年時代[編集]
大島渚は1932年に生まれた。水産学者だった父の仕事の関係で瀬戸内海沿岸を転々としたが、6歳のときに父が亡くなり、母の実家がある京都市へ移って育った。出生地については京都市とする資料と岡山県とする資料があり、辞典類でも記述が分かれている。
本人はのちに、父を早くに失ったことを幼少期のいちばん大きな出来事と振り返り、1992年には「父の不在」をテーマにしたエッセイも書いている。父は膨大な蔵書を残しており、少年時代の大島はその本を読みふけったとされる。一方で母との関係はぎくしゃくしていたと、息子たちが後年明かしている。
終戦時は中学生だった。ジャーナリストの田原総一朗によると、本土決戦が迫る1945年夏、大島のクラスでは教師が生徒に切腹の作法を教えたという。その体験と敗戦後の価値観の大転換が、国家やメディアへの強烈な不信感の原点になったと田原は見ている。
京都大学と学生運動[編集]
旧制の京都府立京都第二中学校から学制改革で京都市立洛陽高校に移り、1950年に京都大学法学部へ進学した。政治学者の猪木正道に師事し、政治史を学んでいる。
在学中は京都府学連の委員長として学生運動の先頭に立ち、京大天皇事件や荒神橋事件など、当時の京都の学生運動史に残る出来事に関わった。同時に劇団「創造座」を主宰して演劇にも打ち込んでいる。のちの独立プロ「創造社」の名前は、このころからの延長線上にあるわけだ。
田原総一朗によれば、大島は本当は大学に残って研究者になりたかったが、学生運動のリーダーだった経歴が足かせになったという。こうして1954年、彼は約2000人の受験者から10人ほどしか採られなかったという狭き門をくぐり、松竹大船撮影所に助監督として入社する。
松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手へ[編集]
松竹大船撮影所といえば、小津安二郎や木下惠介に代表される、家庭劇・人情劇の伝統で知られる撮影所だ。大島は厳しい徒弟制度のなかで助監督を務め、脚本を書きためながら頭角を現した。1955年の『結婚白書』の現場では、のちに妻となる女優の小山明子と出会っている。
1959年、『愛と希望の街』で監督デビュー。翌1960年には『青春残酷物語』『太陽の墓場』を立て続けにヒットさせ、社会に反抗して敗れていく若者の姿を生々しく描いた。マスコミは同時期に台頭した篠田正浩・吉田喜重らとまとめて「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼んだが、大島本人はこの呼び名を好まなかったという。
同じころ松竹では山田洋次も監督デビューしているが、山田は大船の伝統である庶民派喜劇の道を歩んだ。同じ撮影所から正反対の作家が同時期に出てきたというのは、日本映画史の面白いところである。
経歴[編集]
『日本の夜と霧』上映打ち切り事件と松竹退社[編集]
1960年、大島は安保闘争をめぐる左翼学生たちの議論と内部対立を描いた『日本の夜と霧』を発表する。ところが同年10月、社会党委員長の浅沼稲次郎が刺殺される事件が起こり、松竹は公開からわずか4日でこの作品の上映を打ち切った。
会社側は「客が入らないから」と説明したが、大島は政治的な圧力があったと見て猛抗議した。打ち切りにもかかわらず、作品はこの年のキネマ旬報ベストテンで10位に入っている。大島はこれに抗議する形で、翌1961年に松竹を退社した。私生活ではその前年の1960年に小山明子と結婚したばかりで、新婚早々の大きな決断だった。
創造社の時代[編集]
1961年、大島は小山明子や脚本家の田村孟、石堂淑朗、俳優の戸浦六宏、渡辺文雄、小松方正らとともに独立プロダクション「創造社」を設立した。顔ぶれの多くは松竹を共に離れた仲間たちで、以後の大島作品の常連となる「大島組」の中核を成していく。
ただ、独立直後は苦しかった。大江健三郎の原作による『飼育』(1961年)、東映で撮った『天草四郎時貞』(1962年)のあと、劇映画の企画がなかなか実現しない時期が続く。その間、小山明子がテレビドラマに数多く出演して家計を支えたとされる。
大島はこの時期、テレビに活路を見いだした。1963年の日本テレビのドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は、戦争で傷つきながら補償を受けられない在日韓国人の元日本兵を追った作品で、今も大島の代表作に数えられる。1964年から翌年にかけては、TBSテレビで全13話の連続ドラマ『アジアの曙』も手がけた。大島にとって唯一の連続テレビドラマである。
『絞死刑』『少年』『儀式』と国際的評価[編集]
1965年の『悦楽』で劇映画に本格復帰し、『白昼の通り魔』(1966年)、白土三平の劇画をそのまま撮影した異色作『忍者武芸帳』(1967年)、『日本春歌考』(1967年)と、実験的な作品を次々に送り出した。
1968年の『絞死刑』は、日本アート・シアター・ギルド(ATG)と独立プロが製作費を折半する、いわゆる「一千万円映画」の第1弾である。実際の事件に着想を得て、死刑執行に失敗した在日朝鮮人の死刑囚「R」をめぐり、刑務官や検事が寸劇で彼の記憶を呼び戻そうとするブラックコメディーだ。民族差別、官僚制、死刑制度の矛盾を観客に突きつけるこの作品は、カンヌで上映されて大島の名を世界に広めた。
1969年の『少年』は、子どもを使って当たり屋をして各地を渡り歩く家族の実話をもとにした作品。同年の『新宿泥棒日記』では、グラフィックデザイナーの横尾忠則を主演に迎え、ポスターまで横尾が手がけた。そして1971年の『儀式』は、ある旧家の冠婚葬祭を通して戦後日本の家父長制を風刺し、キネマ旬報ベストテン1位に輝いた。この『儀式』の音楽を担当したのが武満徹である。
創造社は1972年の『夏の妹』を最後に、1973年に解散。大島は1975年に大島渚プロダクションを設立し、次の時代へ進む。
『愛のコリーダ』とわいせつ裁判[編集]
1976年、大島は初の国際共同製作となる日仏合作映画『愛のコリーダ』を発表した。題材は昭和11年(1936年)の阿部定事件で、主演は藤竜也と松田英子。同年のベルリン国際映画祭、カンヌ国際映画祭で上映され、世界的なセンセーションを巻き起こした。
一方、日本国内では映倫の規定により大幅な修正を加えた形でしか公開できなかった。さらに、作品の脚本とスチール写真を収めた書籍がわいせつ物頒布の罪に問われ、大島と出版社の社長が起訴される事態となる。被告側は刑法175条そのものが憲法違反だと主張して争った。
法廷で大島は「表現されたものにわいせつなものはない。わいせつなのは隠されたものだ」という趣旨の主張を展開したことで知られる。判決は1979年の一審で無罪、検察が控訴したものの1982年の東京高裁でも無罪となり、確定した。この裁判は、日本における表現の自由をめぐる代表的な事件として今も語り継がれている。
1978年には同じく藤竜也主演の『愛の亡霊』を発表し、カンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。日本人監督として大きな勲章であり、大島の国際的地位を決定づけた。
『戦場のメリークリスマス』[編集]
1983年の『戦場のメリークリスマス』は、大島の名前を一般の映画ファンにまで浸透させた最大のヒット作である。原作はローレンス・ヴァン・デル・ポストの体験記で、脚本は大島とポール・マイヤーズバーグの共同。太平洋戦争下のジャワの日本軍俘虜収容所を舞台に、日本兵と英国人捕虜の奇妙な心の交流を描いた。撮影は南太平洋のクック諸島・ラロトンガ島で行われた。
この映画を伝説にしたのは、何といっても型破りなキャスティングだ。英国人捕虜セリアズ役に世界的ロックスターのデヴィッド・ボウイ、収容所長ヨノイ大尉に音楽家の坂本龍一、そして粗暴だがどこか憎めないハラ軍曹に、当時お笑い芸人として人気絶頂だったビートたけし(北野武)を起用したのである。
大島は京大の演劇活動のころから日本の俳優の大げさな演技を嫌っていたとされ、素人や演劇以外の分野の人間を好んで起用した。キャスティングこそ監督の仕事の大部分だと考えていたという証言もある。結果的にこの3人の起用は大成功で、北野武にとっては俳優としての評価を決定づける作品になった。
『マックス、モン・アムール』[編集]
1986年の『マックス、モン・アムール』は、全編フランス語で撮影されたフランス資本の作品である。脚本はルイス・ブニュエル作品で知られるジャン=クロード・カリエールとの共同で、主演はシャーロット・ランプリング。パリに暮らす英国外交官の妻がチンパンジーの「マックス」を愛してしまい、夫が困惑するという奇想天外なコメディだ。
撮影はヌーヴェルヴァーグの名カメラマン、ラウル・クタールが担当し、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にも出品された。ただし評価は賛否が割れ、以後大島は長編劇映画から13年間遠ざかることになる。
その間に、早川雪洲の伝記映画『ハリウッド・ゼン』を企画し、坂本龍一の主演も予定されていたが、1992年ごろに頓挫している。英国映画協会(BFI)の依頼による記録映画『日本映画の百年』や、母への思いを込めたドキュメンタリー『キョート・マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)など、映像作品の制作は続けていた。
脳出血からの復帰と『御法度』[編集]
1996年1月、大島は13年ぶりとなる新作『御法度』の製作を発表する。ところが翌2月21日、講演旅行先のロンドン・ヒースロー空港で脳出血に倒れた(当時の報道では脳梗塞とも伝えられた)。右半身に麻痺が残り、製作は延期となる。
3年に及ぶリハビリを経て、大島は1998年10月に改めて製作発表を行った。杖をついて会見に現れた大島が主役に抜てきしたのは、故・松田優作の長男で当時15歳の中学3年生だった松田龍平である。龍平は会見で、大島のことを以前は怖い人だと思っていたが、今はすごい人だと思う、という趣旨の言葉を残している。
1999年に公開された『御法度』は、幕末の新選組に入隊した美少年・加納惣三郎をめぐって隊内の空気が乱れていく時代劇。土方歳三をビートたけし、近藤勇を映画監督の崔洋一が演じ、浅野忠信や武田真治、坂上二郎らも出演した。音楽は再び坂本龍一。2000年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、ブルーリボン賞の監督賞・作品賞を受賞した。これが大島の遺作となった。
作風[編集]
タブーへの挑戦[編集]
大島作品をひとことで言えば「日本社会が見ないふりをしているものを、真正面から見せる映画」である。在日コリアンへの差別(『忘れられた皇軍』『絞死刑』)、死刑制度(『絞死刑』)、天皇制と家父長制(『儀式』)、性と表現の自由(『愛のコリーダ』)と、扱うテーマはどれも当時の日本映画が避けて通ってきたものばかりだ。
田原総一朗は、大島の映画に出てくる日の丸は赤い太陽ではなく黒い太陽だったと指摘している。国家への違和感を、ひと目でわかる映像記号にまで落とし込むセンスは、学生運動出身の大島ならではといえる。
素人起用とキャスティング術[編集]
プロの俳優よりも、異業種の人間や新人を好んだのも大島の大きな特徴だ。『新宿泥棒日記』の横尾忠則、『戦場のメリークリスマス』のボウイ・坂本・たけし、『御法度』の松田龍平や崔洋一と、その系譜は一貫している。タレントの芳村真理に女優への転向を勧めたのも大島だったとされる。
一方で、創造社時代の戸浦六宏・渡辺文雄・小松方正・佐藤慶らは「大島組」として何本もの作品を支えた。素人の新鮮さと、気心の知れた仲間の安定感。その両方を組み合わせるのが大島流だった。
音楽家との仕事[編集]
大島は音楽家にも大胆に仕事を任せた。『儀式』の武満徹、『戦場のメリークリスマス』『御法度』の坂本龍一がその代表である。坂本の証言によれば、大島は音楽について一切口を出さなかったという。のちにベルナルド・ベルトルッチ監督が細かい注文を連発したのとは対照的だった、と伝えられている。
テレビの論客として[編集]
『朝まで生テレビ!』の顔[編集]
1987年4月にテレビ朝日で始まった討論番組『朝まで生テレビ!』で、大島は作家の野坂昭如とともに初期からのレギュラーパネリストを務めた。天皇制や原発など、当時のテレビでは扱いにくかったテーマを率先して持ち出したのは大島だったと、司会の田原総一朗は振り返っている。
田原が言葉を濁したり逃げたりすると、大島は容赦なく「逃げるな」と怒鳴りつけた。田原にとって大島は「怖いけれど頼りになる兄貴分」だったという。社会の理不尽に本気で怒る姿は、映画を観たことのない世代にも「怒る大島渚」というイメージを強烈に刻みつけた。
意外にも本人は笑いを解する人で、タレントの松尾貴史による『朝まで生テレビ!』のパロディを大いに面白がり、録画ビデオを田原に送ってきたというエピソードもある。
野坂昭如との壇上の一件[編集]
1990年、大島と小山明子の結婚30周年を祝うパーティーで、ワイドショーをにぎわせた珍事件が起きた。祝辞を読んでいた野坂昭如が、隣に立つ大島の左頬にいきなり右ストレートを見舞い、大島の眼鏡が吹っ飛んだのである。
激怒した大島は、手にしていたマイクで野坂を2度殴り返し、周囲が慌てて割って入る騒ぎとなった。この映像は繰り返しテレビで放送され、2015年に野坂が亡くなった際には、動画サイトでこの場面の再生が急増したと報じられている。
日本映画監督協会理事長[編集]
大島は1980年から1996年まで日本映画監督協会の理事長を務め、映画監督の権利や地位の向上に取り組んだ。また1979年から約10年間、ぴあフィルムフェスティバル(PFF)の審査員も務め、自主映画の若い才能を発掘した。8ミリ作品で頭角を現した平野勝之も、大島らの推薦を受けた監督の一人である。
1980年代にブームを巻き起こした角川映画に対しては、初期作品を評価しつつも、のちに前売り券の大量販売や大量宣伝の手法を批判している。業界の顔でありながら、業界にも遠慮しない姿勢は最後まで変わらなかった。
私生活・家族[編集]
妻・小山明子[編集]
妻は女優の小山明子。松竹の助監督と女優として出会い、1960年に結婚した。小山は創造社の設立メンバーにして看板女優でもあり、『絞死刑』『少年』など多くの大島作品に出演している。独立直後の苦しい時期には、テレビ出演で家計を支えた。
仲人を務めることもあった。映画監督の高橋伴明と女優の高橋惠子が1982年に結婚した際、仲人を務めたのは大島・小山夫妻である。
17年間の介護生活[編集]
1996年に大島が倒れてからは、小山は女優業を断ち、介護に専念した。自宅から車で40分ほどの病院へ週4日通い、言語療法・理学療法・作業療法のリハビリにずっと付き添ったという。介護生活は大島が亡くなるまで17年間に及んだ。
小山はのちのインタビューで、大島が椅子を引いてもらうたびに必ず「ありがとう」と言ったことを振り返り、「ありがとう」は魔法の言葉だったと語っている。家政婦やリハビリの担当者、運転手にも感謝を欠かさず、リハビリの先生からは「珍しい患者さん」と言われたという。テレビで怒鳴っていた人物像とは、だいぶ違う素顔である。
息子たち[編集]
長男は大島武、次男はドキュメンタリー監督の大島新。息子たちによれば、大島は普段はとても愉快でよく笑う人で、子どもを叱ることはめったになかった。次男の新が叱られたのは、来客のおもちゃが鍋に入ってしまったときのたった1回だけだったという。二人は没後、父の言葉50をたどった共著を出版している。
死去[編集]
2013年1月15日午後3時25分、肺炎のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。80歳だった。喪主は小山明子が務めた。
1月22日に東京・築地本願寺で営まれた葬儀・告別式には約700人が参列した。弔辞は坂本龍一、篠田正浩、田原総一朗らが読んだ。坂本は「あなたは私のヒーローでした」と語りかけ、初対面は大島が『戦場のメリークリスマス』の台本を抱えて自宅を訪ねてきたときだったと明かした。松田龍平は、撮影のため参列できなかった藤竜也の弔文を代読している。
出棺の際には『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲が流れるなか、松田龍平らが棺を霊柩車に運び入れた。小山明子は挨拶で、前年に亡くなった若松孝二監督と今ごろ天国で酒を酌み交わしているだろうと語り、「大島渚の妻として今日ほど誇りに思ったことはありません」と涙ながらに述べた。
評価・影響[編集]
戦う芸術家[編集]
田原総一朗は弔辞で大島を「昭和が生んだ最大の芸術家。戦う芸術家でした」と称えた。篠田正浩は、遺影を前にすると大島の映画の題名が次々によみがえるので喪失感はない、と盟友を送った。
大島の影響は日本映画の枠を超えている。2021年に『戦場のメリークリスマス』と『愛のコリーダ』の修復版が連続公開された際には、マーティン・スコセッシ、ベルトルッチ、クリストファー・ノーラン、アリ・アスターらのコメントが予告編を飾った。世界の映画作家にとって、大島は今なお参照され続ける存在なのだ。
大島渚賞と没後の再評価[編集]
2019年、ぴあフィルムフェスティバルは大島の名を冠した「大島渚賞」を創設した。審査委員長は坂本龍一、審査員には黒沢清らが名を連ね、2020年の第1回は小田香監督が受賞した。第2回は「該当者なし」という厳しい判断が下され、審査員たちの「強烈なメッセージ」として報じられた。
没後10年の2023年には、東京・京橋の国立映画アーカイブで大規模な回顧上映(45作品・34プログラム)と展覧会が開かれた。展覧会では、実現しなかった企画『日本の黒幕』『ハリウッド・ゼン』の資料なども初めて公開された。上映作品には、日本映画監督協会の記録映像『わが映画人生 黒澤明監督』も含まれており、黒澤明という巨匠と大島の接点を示す貴重な映像となっている。
主な受賞歴[編集]
- 1960年 - 日本映画監督協会新人賞
- 1961年 - ブルーリボン賞 新人賞
- 1969年 - キネマ旬報賞 脚本賞(『絞死刑』)
- 1971年 - 毎日新聞社などが主催する毎日映画コンクール 脚本賞(『儀式』)
- 1972年 - キネマ旬報賞 監督賞・作品賞・脚本賞(『儀式』)
- 1978年 - カンヌ国際映画祭 監督賞(『愛の亡霊』)
- 1983年 - 毎日映画コンクール 日本映画大賞・監督賞・脚本賞(『戦場のメリークリスマス』)
- 2000年 - ブルーリボン賞 監督賞・作品賞(『御法度』)、紫綬褒章
- 2001年 - フランス芸術文化勲章オフィシエ
- 2014年 - ブルーリボン賞 特別賞(没後)
主な監督作品[編集]
| 公開年 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1959 | 愛と希望の街 | 監督デビュー作 |
| 1960 | 青春残酷物語 | 松竹ヌーヴェルヴァーグの代表作 |
| 1960 | 太陽の墓場 | 大阪の釜ヶ崎を舞台にした群像劇 |
| 1960 | 日本の夜と霧 | 公開4日で上映打ち切り |
| 1961 | 飼育 | 大江健三郎原作 |
| 1962 | 天草四郎時貞 | 東映作品 |
| 1965 | 悦楽 | 創造社の劇映画復帰作 |
| 1966 | 白昼の通り魔 | |
| 1967 | 忍者武芸帳 | 白土三平の劇画をそのまま撮影 |
| 1967 | 日本春歌考 | |
| 1968 | 絞死刑 | ATG一千万円映画の第1弾 |
| 1968 | 帰って来たヨッパライ | ザ・フォーク・クルセダーズ主演 |
| 1969 | 新宿泥棒日記 | 横尾忠則主演 |
| 1969 | 少年 | 当たり屋一家の実話がもと |
| 1970 | 東京战争戦後秘話 | |
| 1971 | 儀式 | キネマ旬報ベストテン1位、音楽は武満徹 |
| 1972 | 夏の妹 | 創造社最後の作品 |
| 1976 | 愛のコリーダ | 日仏合作、主演は藤竜也 |
| 1978 | 愛の亡霊 | カンヌ国際映画祭監督賞 |
| 1983 | 戦場のメリークリスマス | ボウイ、坂本龍一、北野武が出演 |
| 1986 | マックス、モン・アムール | 全編フランス語 |
| 1999 | 御法度 | 遺作、松田龍平デビュー作 |
炎上とバズ[編集]
『愛のコリーダ』わいせつ裁判[編集]
『愛のコリーダ』の脚本とスチールを収めた書籍がわいせつ物頒布罪に問われ、大島は出版社の社長とともに起訴された。一審・二審とも無罪となり確定したが、作品そのものは日本では今も修正を加えた形で上映されている。2000年の「完全ノーカット版」とうたったリバイバル上映でも、映倫の規定により一部は修正されたままだった。
『戦メリ』ポスター盗難騒動[編集]
2021年、修復版公開にあわせて新宿武蔵野館で開かれたポスター展で、1点しかない『戦場のメリークリスマス』の海外版ポスターが盗まれ、展示が中止される騒ぎがあった。ところがその後、ポスターは差出人不明のまま劇場に返却され、ちょっとしたミステリーとして話題になった。
余談[編集]
- 法廷で語ったとされる「表現されたものにわいせつなものはない。わいせつなのは隠されたものだ」という趣旨の言葉は、表現の自由を語る際によく引用される。
- カンヌでは大きな扇子を手に街を歩いていたといい、同行した藤竜也はその姿に気迫を感じたと振り返っている。
- 坂本龍一が映画監督に挑戦しないことにもどかしさを感じ、「卑怯だ」と叱ったことがあるという。坂本は弔辞でこのエピソードを明かし、自分には監督の才能はないと苦笑した。
- 坂本龍一は、大島の死によって社会を厳しく叱る人がいなくなり、日本は少しつまらなくなったかもしれない、と語っている。
- 翻訳の仕事も手がけており、ジョン・グレイの恋愛心理のベストセラー『ベスト・パートナーになるために』の訳者としても知られる。
- 長男が電電公社(現在のNTT)から内定をもらった際には、大企業に入るのは度胸がいるな、と言ったという。
外部リンク[編集]
- 国立映画アーカイブ(2023年に没後10年の回顧上映・展覧会を開催)

