坂本龍一
Ryuichi Sakamoto
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2010年、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで行われたパネル「Art & Nature」に登壇した坂本龍一(撮影:May S. Young/出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY 2.0)
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2008年、ロンドン公演後のYMO(撮影:The_Junes/出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY 2.0)
基本情報
本名 坂本龍一(さかもと りゅういち)
誕生日 1952年1月17日
死亡日 2023年3月28日
死亡年齢 71歳(数え年72)
出身地 東京都中野区
国籍 日本
居住地 1990年ごろからニューヨークを拠点とし、晩年は東京
学歴 東京都立新宿高等学校、東京藝術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院修士課程修了
ジャンル テクノポップ、電子音楽、現代音楽、映画音楽、アンビエント、ピアノ曲
ポジション キーボード、ピアノ、作曲
活動期間 1975年 - 2023年
デビューアルバム 『千のナイフ』(1978年)
家族 父・坂本一亀(文芸編集者)、元妻・矢野顕子(音楽家)、娘・坂本美雨(歌手)、息子・空音央(映画監督)
身長 / 体重 ― cm / ― kg
レーベル 日本コロムビア、アルファレコード、ミディ、ヴァージン、ワーナーミュージック・ジャパン、commmons ほか
事務所 KAB America Inc.
所属グループ YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)
関連活動 more trees 創設者、NO NUKES 主催、東北ユースオーケストラ 創設
別名 教授、Ryuichi Sakamoto
その他 日本人初のアカデミー作曲賞受賞者(『ラストエンペラー』)



概要[編集]

坂本龍一(さかもと りゅういち、1952年1月17日 - 2023年3月28日、愛称「教授」)とは、YMOの一員としてテクノポップで世界を驚かせ、映画『ラストエンペラー』で日本人として初めてアカデミー作曲賞を受賞した作曲家・ピアニストである。ポップス、電子音楽、現代音楽、映画音楽を自在に行き来し、晩年は「音そのもの」と自然、社会に向き合い続けた、日本を代表する音楽家だ。

詳細[編集]

「教授」と呼ばれた男[編集]

坂本龍一といえば、ファンも同業者もそろって「教授」と呼ぶ。本物の大学教授だったわけではない。東京藝術大学の作曲科を出て大学院の修士課程まで修了した、いわばクラシックの正統派エリートが、スタジオミュージシャンとしてポップスの現場に現れたのは当時かなり珍しかった。理論にも楽器にも通じ、哲学や文学の話までする若者に、仲間たちが半分からかい、半分敬意を込めてつけたのが「教授」というあだ名である。

名付け親についてはYMOの盟友・高橋幸宏だとする説がファンの間でよく語られるが、決定的な証言として残っているわけではない。いずれにせよ、このあだ名は本人の死後も変わらず使われ続けており、追悼記事の見出しにも「教授」の二文字が並んだ。

中学生で「ドビュッシーの生まれ変わり」[編集]

1952年1月17日、東京都中野区に生まれる。父・坂本一亀は河出書房の文芸編集者で、家には本があふれていた。幼いころからピアノと作曲を習い、中学生のころには本気で自分をドビュッシーの生まれ変わりだと信じていたという、なかなか強烈な少年時代を本人が語っている。

都立新宿高校を経て1970年に東京藝大へ入学したが、入ってみるとクラシックの世界に幻滅し、興味は電子音楽と民族音楽に移っていった。大学院の授業にはほとんど出なかったとされる。在学中から友部正人や山下達郎、大貫妙子らのレコーディングやライブに参加し、腕利きの鍵盤奏者として業界に名前が知られるようになった。

YMOから世界へ[編集]

1978年、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加したことがきっかけで、細野の誘いにより高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成する。同じ年の10月にはソロデビューアルバム『千のナイフ』も発表した。シンセサイザーとコンピューターを大胆に使ったYMOのサウンドは海外でも評価され、日本のポップスが「輸出」された最初期の例となった。

YMOは1983年に「散開」(解散ではなくこう呼んだ)し、1993年に一時「再生」、2000年代以降もたびたび3人で演奏した。散開後の坂本は映画音楽と海外での活動に軸足を移し、1990年ごろからはニューヨークを拠点に世界を相手に仕事をするようになる。

晩年と死去[編集]

2014年に中咽頭がんを公表して療養に入り、翌年に復帰。2021年1月には直腸がんの手術を受けたことを明かし、2022年にはがんがステージ4で肺にも転移していると公表した。闘病しながらも作曲は止めず、2023年1月17日、71歳の誕生日にアルバム『12』を発表している。

2023年3月28日、東京都内の病院で死去。71歳だった。訃報は葬儀を近親者で済ませたあとの4月2日に公表され、国内外の音楽家や映画人から追悼の言葉が相次いだ。

経歴[編集]

スタジオミュージシャン時代(1975年 - 1978年)[編集]

1975年、フォーク歌手・友部正人のアルバムにピアノで参加したのがプロとしての本格的なスタートとされる。藝大大学院に籍を置きながら、セッションの現場を掛け持ちする日々だった。当時を知るスタッフによれば、レコーディングの指示を出しながら録音卓の上で次の仕事の譜面を書いていたというほどの売れっ子ぶりだった。

YMOの相棒となる高橋幸宏との初対面は、日比谷野音で山下達郎のバックで鍵盤を弾いていたときだったと高橋が回想している。ベルボトムのジーンズにゴム草履という格好の坂本は、KENZOのセットアップを着た高橋を見て「こんなやつにロックができるのか」と思ったそうだ。ところがすぐに打ち解け、のちには「幸宏、僕のコーディネートしてくれる?」と頼むほどになる。ファッションに無頓着だった教授を「おしゃれな教授」に変えたのは高橋だった。

YMO時代(1978年 - 1983年)[編集]

YMOは「ライディーン」「テクノポリス」などのヒットで社会現象になった。坂本が書いた「ライオット・イン・ラゴス」は、急に人気者になったストレスから生まれた「アンチYMO」的な曲だったが、細野と高橋が気に入り、ワールドツアーのオープニング曲に採用された。ニューヨーク公演で観客が踊っていたことは、当時のスタッフの印象に強く残っているという。

一方で3人の関係は常に順風満帆だったわけではなく、細野と坂本が顔を合わせないほど険悪な時期もあったと関係者は語っている。その間を取り持ったのが高橋だった。YMOのブームはお笑い界にも波及し、のちに細野が作曲したイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」はYMOをもじったグループ名と、「ライディーン」をパロディにしたイントロで大ヒットしている。

映画音楽と世界進出(1983年 - 1990年代)[編集]

1983年、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に俳優として出演し、同時に初めて映画音楽を手がけた。1987年の『ラストエンペラー』でアカデミー作曲賞を受賞し、「世界のサカモト」と呼ばれるようになる。1992年にはバルセロナオリンピック開会式の音楽を担当した。

1999年には、栄養ドリンク剤のCMに使われたピアノ曲「energy flow」を収めたシングル『ウラBTTB』が大ヒット。オペラ『LIFE』の上演もこの年である。ポップスターとしても、前衛作曲家としても、同時に最前線にいた時期だった。

2000年代以降[編集]

2000年代は、ドイツの電子音楽家アルヴァ・ノトとのコラボレーションなど、ノイズや音響に寄った作品を多く発表する。2006年にはエイベックスと共同でレーベル「commmons」を設立した。2005年にはフィンランドの携帯電話メーカーに依頼されて着信音・通知音を作曲するなど、仕事の幅も広かった。

2010年から2014年にかけては、NHKEテレで音楽の歴史と仕組みを解き明かす教育番組『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』に出演した。この番組の制作にはDIRECTIONSが携わっている。2017年には8年ぶりのオリジナルアルバム『async』を発表し、同年に密着ドキュメンタリー『Ryuichi Sakamoto: CODA』も公開された。

映画との関わり[編集]

『戦場のメリークリスマス』[編集]

大島渚監督から出演を依頼された坂本は、「音楽もやらせてくれるなら」と条件を出したとされる。大島はその場で快諾し、音楽を丸ごと任せた。これが坂本にとって初めての映画音楽となった。演じたのは日本軍の捕虜収容所長・ヨノイ大尉。共演はデヴィッド・ボウイと、ハラ軍曹役の北野武(ビートたけし)である。

テーマ曲「Merry Christmas Mr. Lawrence」は、映画を観たことがない人でもイントロの数音で分かるほどの名曲となり、英国アカデミー賞作曲賞を日本人として初めて受賞した。のちにデヴィッド・シルヴィアンが歌詞をつけた歌入りバージョン「Forbidden Colours」も作られている。坂本はのちに、作曲の際にボウイに助言を求めなかったことを少し後悔していたとも語っている。

『ラストエンペラー』でアカデミー賞[編集]

ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(1987年)でも、坂本はまず俳優として満州映画協会の理事長・甘粕正彦役で出演し、その後に作曲を依頼された。音楽はデイヴィッド・バーン、蘇聡と共作で、アカデミー作曲賞、ゴールデングローブ賞作曲賞、グラミー賞を受賞。日本人がアカデミー作曲賞を手にしたのはこれが初めてである。

ベルトルッチとはその後も『シェルタリング・スカイ』(1990年)、『リトル・ブッダ』(1993年)で組み、『シェルタリング・スカイ』では再びゴールデングローブ賞を受賞した。ハリウッドではブライアン・デ・パルマ監督の『スネーク・アイズ』『ファム・ファタール』なども手がけている。

日本映画・韓国映画[編集]

国内では、大島渚の遺作となった『御法度』(1999年)、市川準監督の『トニー滝谷』(2005年)など作家性の強い作品に参加した。2015年には山田洋次監督、吉永小百合主演の『母と暮せば』を担当し、毎日映画コンクール音楽賞を受賞している。

2016年の李相日監督『怒り』では、渡辺謙、綾野剛、広瀬すず、妻夫木聡らが出演する群像劇に音楽をつけた。録音はアメリカ・シアトル近郊の礼拝堂で行われ、チェロデュオの2CELLOSも参加している。韓国映画では、イ・ビョンホンとキム・ユンソクが共演した『天命の城』(2017年)の音楽も手がけた。テレビでは、綾瀬はるか主演の大河ドラマ『八重の桜』(2013年)のテーマ音楽が坂本の作曲である。

『レヴェナント』と遺作『怪物』[編集]

2015年春、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督から『レヴェナント 蘇えりし者』の音楽を依頼された。がんの療養から復帰して間もない時期で、『母と暮せば』と並行して作業したという。坂本は「自然の視点」をテーマに、風の音さえ音楽に聞こえるような音を目指したと語っている。イニャリトゥは、坂本がアルヴァ・ノトと長年追求してきたノイズ的な音響に惹かれていたようだと本人は分析しており、実際にアルヴァ・ノトも参加した。

最後の映画音楽となったのが、是枝裕和監督の『怪物』(2023年)だ。闘病中で新曲を多く書くことは難しかったため、既存の楽曲と新たに書いたピアノ曲で構成された。同作は坂本の没後に公開され、彼の思い出に捧げられている。

代表作[編集]

ソロアルバム[編集]

  • 『千のナイフ』(1978年) - ソロデビュー作。YMO結成とほぼ同時期の作品で、シンセサイザーと民族音楽的な響きが同居する
  • 『B-2 UNIT』(1980年) - 実験色の強い一枚。「ライオット・イン・ラゴス」を収録
  • 『音楽図鑑』(1984年) - ポップさと実験性が絶妙に混ざった中期の代表作
  • 『BEAUTY』(1989年) - 沖縄民謡などワールドミュージックを大胆に取り入れた
  • 『BTTB』(1998年)と『ウラBTTB』(1999年) - ピアノ回帰の時期。「energy flow」はここから生まれた
  • 『out of noise』(2009年) - 北極圏で録音した音も取り入れた音響的作品
  • 『async』(2017年) - がん療養後の復帰作。「架空の映画のサウンドトラック」として構想された
  • 『12』(2023年) - 闘病中に録りためた12のスケッチ集。生前最後のオリジナルアルバム

「energy flow」という事件[編集]

「energy flow」は、1999年に放送された栄養ドリンク剤のCMで流れたピアノ曲だ。歌詞もないインストゥルメンタルなのに、収録したシングル『ウラBTTB』は大ヒットし、ミリオンセラーを記録した。バブル崩壊後の疲れた空気のなかで、静かなピアノの音が多くの人の心に刺さったと分析されている。

ところが本人は「5分で作った」と語り、なぜこんなに売れたのか分からないとこぼしていたという。狙って作った曲ではなく、肩の力が抜けた曲が国民的ヒットになるという、音楽の不思議を体現したエピソードである。

最後のアルバム『12』[編集]

『12』は2017年の『async』以来、約6年ぶりのオリジナルアルバムで、2023年1月17日に発売された。2021年3月に大きな手術を終えて自宅に戻り、「音に包まれたい」とシンセサイザーに触れたところから録りためた音の日記だという。

曲名はすべて作った日付(例:20210310)で、飾りのない日記のようなつくりになっている。本人は手を加えずにあえてそのまま出すとコメントしており、ジャケットには現代美術家の李禹煥が描き下ろしたドローイングが使われた。

社会活動[編集]

環境保全とmore trees[編集]

2007年、森林保全団体「more trees」を設立し、代表を務めた。国内外の森を「more treesの森」として整備し、間伐材の活用など都市と森をつなぐ活動を続けている。現在は建築家の隈研吾が代表を引き継いでいる。

2011年の東日本大震災のあとは、more treesのプロジェクトとして岩手県住田町に木造仮設住宅を建てる支援を行った。被災地の子どもたちによる「東北ユースオーケストラ」の立ち上げにも関わり、晩年まで演奏会に参加している。

反原発運動[編集]

震災後は脱原発の立場を明確にし、2012年に音楽フェス「NO NUKES」を企画した。このイベントは2019年まで続いた。それ以前から青森県六ヶ所村の再処理施設に反対する「STOP ROKKASHO」に参加するなど、原子力政策への批判を続けていた。

こうした発言には賛否があり、音楽家が政治的な発言をすることへの批判も寄せられた。一方で本人は、自分の作品が環境メッセージのために選ばれることは望まないとも語っており、音楽と社会活動を切り分けて考えていた面もある。

神宮外苑の再開発[編集]

亡くなる直前の2023年3月、明治神宮外苑の再開発で多くの樹木が伐採される計画の見直しを求める手紙を、東京都知事らに送っていた。手紙には、100年かけて守り育ててきた神宮の樹々を犠牲にすべきではない、という趣旨がつづられていた。

この手紙は死後に大きく報じられ、再開発をめぐる議論が広がるきっかけのひとつとなった。都庁前では伐採に反対する人々が集まり、都も事業者に説明を求めるなど、事実上「最後の社会的メッセージ」として受け止められた。

最後の作品とドキュメンタリー[編集]

『Ryuichi Sakamoto | Opus』[編集]

2022年9月、坂本は東京のNHK509スタジオで、長年愛用したヤマハのグランドピアノを使い、自ら選んだ20曲を演奏した。体力的に通しのコンサートはもう難しく、数日に分けて収録されたものだ。2022年12月にはその演奏の一部が配信コンサートとして公開されている。

これを映画化したのが、モノクロのコンサート映画『Ryuichi Sakamoto | Opus』(103分)である。監督は坂本の息子で映画監督の空音央。2023年のヴェネツィア国際映画祭で初上映され、日本では2024年5月に全国公開された。「Merry Christmas Mr. Lawrence」のほか、YMOの「東風(Tong Poo)」をピアノソロで初めて披露している点もファンには見逃せない。サウンドトラック盤はグラミー賞にもノミネートされた。

没後のドキュメンタリーと書籍[編集]

没後には、自伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(2023年、新潮社)が刊行された。雑誌『新潮』での連載をまとめたもので、『音楽は自由にする』(2009年)の続編にあたる。がんとの共生や死生観、坂本家の歴史までを率直に語っている。

2026年1月には、1984年に撮影されたドキュメンタリー『Tokyo Melody Ryuichi Sakamoto』の4Kレストア版が劇場公開された。坂本が音響監修を務めた新宿の映画館では誕生日に合わせた記念上映イベントが毎年行われ、2026年も満席となった。同年11月には写真集や入門書の刊行も予定されており、没後も「教授」の仕事は掘り起こされ続けている。

人物・家族[編集]

家族[編集]

1982年、音楽家の矢野顕子と結婚し、2006年に離婚した。2人の間に生まれた娘が歌手の坂本美雨である。それ以前にも結婚歴があり、本人は子どもが4人いると語っている。

晩年をともにしたパートナーとの間には息子がいる。その息子が、遺作のコンサート映画『Opus』を監督した空音央だ。父の最後の演奏を息子が撮るという形で残されたことも、作品に特別な重みを与えている。

お笑いへの愛[編集]

「教授」の知的なイメージとは裏腹に、お笑いへの理解が深かったことでも知られる。YMO時代には3人そろってフジテレビの『THE MANZAI』や『オレたちひょうきん族』に出演し、漫才やコントを披露した。アルバム『増殖』(1980年)にはスネークマンショーのコントを曲間に挟んでいる。

極めつけはダウンタウンとの共演だ。1994年、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)で松本人志が「世界の坂本に曲を書いてもらって全米デビューする」と冗談を言ったのがきっかけで、本当にダウンタウンの音楽ユニット「GEISHA GIRLS」をプロデュースしてしまった。お返しに来日した坂本は『ダウンタウンのごっつええ感じ』に出演し、松本演じる「アホアホマン」が「兄貴」と慕う幼なじみ「アホアホブラザー」役で、黄ばんだブリーフ一丁になって暴れまわった。浜田雅功に容赦なくどつかれる場面は、今も伝説として語られる。

評価・影響[編集]

後進への影響[編集]

坂本の影響を公言する音楽家は国内外に数えきれない。アニメや映画の劇伴で知られる澤野弘之は、久石譲や菅野よう子とともに坂本の作品を聴いてサウンドトラックに興味を持ったと語っている。

2025年に大ヒットした李相日監督の映画『国宝』の音楽を担当した原摩利彦も、坂本から薫陶を受けた作曲家として知られる。稲垣吾郎は20歳ごろに坂本と対談したことで音楽の関心が一気に広がったと語っており、ミュージシャン以外にも影響は及んでいる。

BTSのSUGAとの共演[編集]

晩年の坂本は、K-POPの世界ともつながった。BTSのSUGAは2022年9月、自ら希望して坂本と面会している。坂本は後に雑誌『新潮』で、SUGAが謙虚で音楽に真摯な青年だったと書いた。

その縁から、SUGAがAgust D名義で2023年4月に発表したソロアルバム『D-DAY』に、坂本が参加した楽曲「Snooze」が収録された。坂本の没後間もないリリースで、ファンの間では「教授の最後のコラボ」のひとつとして受け止められた。同じアルバムにはJ-HOPEも参加しており、SUGAのソロ活動を追ったドキュメンタリーはDisney+で配信されている。

武満徹との因縁[編集]

学生時代の坂本は、日本現代音楽の大家・武満徹を批判するビラを配ったことがある。権威に噛みつく若者らしいエピソードだが、のちに武満は坂本の『戦場のメリークリスマス』の音楽を高く評価した。尖った若者が、かつて批判した巨匠に認められるというのは、なかなかドラマチックな話である。

余談[編集]

  • 中学時代の先輩には、のちに政治家となる塩崎恭久がいた。塩崎によれば、坂本は部活をよくサボる後輩だったが、本番ではちゃんと音を合わせてくるタイプだったという。
  • 無類の猫好きで、幼いころから猫と暮らしていた。また手塚治虫の大ファンで、特に『火の鳥』と『ブッダ』が好きだと公言していた。
  • 2005年には携帯電話の着信音を作曲したことがあり、翌年にはメーカーの公式サイトで無料配布された。「世界のサカモト」の音がポケットの中で鳴っていた時代があったのだ。
  • ニッポン放送で放送されていた山口良一のラジオ番組では、リスナー1000人以上が参加する合奏イベントで坂本が音楽監督を務めたことがある。
  • 『ガキの使い』では、浜田雅功がニューヨークの坂本の自宅までシャープペンシルを取りに行き、坂本がそれをぞんざいに投げ渡すという企画も放送された。
  • 「energy flow」は本人いわく「5分で作った」。それがミリオンセラーになるのだから、作曲家としては複雑な心境だったかもしれない。
  • 死去の報に際し、松本人志はSNSで「たくさんの楽しい思い出ありがとうございました」と追悼した。

外部リンク[編集]

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