| Jiro Sakagami さかがみ じろう | |
|---|---|
![]() 坂上二郎(写真:共同通信。出典:日刊ゲンダイ) | |
| 本名 | 坂上二郎 |
| 誕生日 | 1934年4月16日 |
| 死亡日 | 2011年3月10日 |
| 死亡年齢 | 76歳 |
| 出身地 | 鹿児島県鹿児島市 |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻、娘 |
| 学歴 | 鹿児島市立清水中学校 卒業 |
| 職業 | コメディアン、俳優、歌手 |
| 肩書 | コント55号(萩本欽一とのお笑いコンビ)のボケ担当 |
| 活動期間 | 1954年 - 2011年 |
| 代表的な実績 | コント55号「飛びます、飛びます」、『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』(1969年 - 1970年)、『みんなで出よう55号決定版!』(1969年 - 1975年)、ドラマ『夜明けの刑事』(1974年 - 1977年)主演、シングル「学校の先生」(1974年) |
| 受賞 | 第2回コメディ栄誉賞(2009年、コント55号として) |
| 事務所 | 浅井企画 |
| 関連活動 | コント55号 |
| 別名 | 安藤ロール(漫才師時代) |
| あだ名 | 二郎さん |
| その他 | 戒名は慈照院和道法郎居士 |
概要[編集]
坂上二郎(さかがみ じろう、1934年4月16日 - 2011年3月10日)とは、鹿児島県鹿児島市出身のコメディアン・俳優・歌手である。萩本欽一(欽ちゃん)とのお笑いコンビ「コント55号」のボケ役として1960年代末に爆発的な人気を得て、「飛びます、飛びます」のギャグで知られた。1970年代からは俳優に軸足を移し、ドラマ『夜明けの刑事』で主演。2011年3月10日、脳梗塞のため76歳で死去した。
詳細[編集]
歌手志望の「二郎さん」[編集]
坂上二郎は、もともとお笑いではなく歌手になるつもりで上京した人である。1953年、NHKの『のど自慢素人演芸会』で鹿児島県代表として優勝し、歌手を目指して東京へ出た。ところが歌の道はすぐには開けず、青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会を務めながら下積みを重ねることになる。
その後、芸人の道に入り、浅草のストリップ劇場「フランス座」などで修業を積んだ。のちにコント55号で大ブレイクし、俳優としてもドラマの主役を張るようになるが、最後まで歌うことを愛した。後年、鹿児島でロケをした片岡鶴太郎は、撮影後のカラオケで坂上がマイクを離さず、「もともとは歌手になるつもりで東京に出てきた」と話していたことを明かしている。
「最高の受け役」[編集]
コント55号の笑いは、萩本が異常な人物になって坂上を振り回し、坂上が慌てたり苦笑したりしながら受け止める、という構図が基本だった。坂上は台本を完璧に覚えてしまうほど記憶力がよかったため、萩本はあえて台本を読ませず、本番の舞台で無理難題を次々に振ったとされる。坂上がそれをアドリブで返し、ときには倍返しのナンセンスなボケで笑いを大きくする。この「ハプニングの笑い」がコンビの真骨頂だった。
ビートたけしは坂上を「最高の受け役」と評し、55号の笑いを「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と分析した。朴訥な役柄やツッコまれる姿から不器用な人だと思われがちだったが、萩本自身は、歌・踊り・動き・しゃべりのすべてが高いレベルにあったと語り、「これだけできる人を困らせるのは大変でしたよ」と振り返っている。
俳優・坂上二郎[編集]
コント55号の活動と並行して、1972年ごろから俳優業を本格化させた。代表作はTBSの刑事ドラマ『夜明けの刑事』(1974年 - 1977年)で、変装の名人であるベテランの鈴木勇刑事を演じた。これが連続テレビドラマ初主演で、シリーズは続編を含めて5年間続いた。
時代劇にも数多く出演し、『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』『鬼平犯科帳』『大岡越前』などに顔を出した。1990年のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』では、同郷の英雄・西郷隆盛の父である西郷吉兵衛を演じている。映画では山田洋次監督の『学校』(1993年)などに出演し、コメディアン出身らしい温かい芝居で脇を固めた。
経歴[編集]
生い立ちと上京(1934年 - 1953年)[編集]
1934年4月16日、鹿児島県鹿児島市に生まれた。2歳のときに家族とともに満州国へ渡り、新京や北京で幼少期を過ごしたのち、小学1年生のころに鹿児島へ戻った。鹿児島市立清水中学校を卒業後は、市内の百貨店「丸屋呉服店」に勤めている。
1953年、NHKの『のど自慢素人演芸会』で鹿児島県代表として優勝。これをきっかけに、歌手を夢見て上京した。
漫才師・浅草時代(1954年 - 1965年)[編集]
上京後は歌手の付き人や司会の仕事をこなしながら、1954年に喜劇人の内海突破に入門。「内藤ロック・安藤ロール」という漫才コンビを組んだ。コンビ解散後は「安藤ロール」の名で浅草フランス座に入り、阿部昇二に師事した。
1962年ごろ、そのフランス座に後輩として入ってきたのが萩本欽一である。当時は坂上のほうが年齢もキャリアも上で、フランス座の芸人の筆頭格だった。坂上は「外様」の萩本に無茶なアドリブを仕掛け、萩本は後年「ケンカになる」ほど激しい芸の応酬だったと振り返っている。萩本はこの対立に疲れ、半年ほどでフランス座を離れた。2人は楽屋でも口をきかない間柄だったとされる。
その後、坂上は中川プロダクションに所属したが、大規模なリストラで退所。キャバレーの司会などで食いつないでいた。
コント55号の結成と大ブレイク(1966年 - 1975年)[編集]
1966年、坂上が萩本に電話をかけたことから運命が動く。きっかけは麻雀の面子が足りなかったことだったとされる。萩本がちょうど考えていた一人コント「机」の話をすると、坂上が「そのコントは、俺と欽ちゃんで演じたほうがいいんじゃない?」と持ちかけた。当時、坂上はすでに結婚しており、妻のお腹には子どもがいた。坂上は妻に「最後の勝負をさせてくれ」と頼み、失敗したら堅気になる覚悟でこの話に乗ったという。結成時、萩本は25歳、坂上は32歳だった。
同年10月、浅草松竹演芸場でデビューし、劇場支配人が「コント55号」と命名した。翌1967年には日劇の歌謡ショーに出演し、テレビからも声がかかるようになる。1968年のフジテレビ『お昼のゴールデンショー』で全国区の人気者になり、1969年には『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』(日本テレビ)、『みんなで出よう55号決定版!』(TBS)と冠番組が次々に始まった。
1970年代に入ると、坂上は俳優としての仕事が増えていく。1974年にはドラマ『夜明けの刑事』で主演し、同年に出したシングル「学校の先生」もヒット。コンビとしては1975年以降、活動を大きく控えるようになった。
俳優・歌手として(1976年 - 2002年)[編集]
1976年ごろからは俳優業に本格的に取り組んだ。『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』と刑事ドラマのシリーズを重ね、『スクール☆ウォーズ』(1984年、TBS)では内田玄治役で出演。1990年には大河ドラマ『翔ぶが如く』にも出演した。
映画では『金田一耕助の冒険』(1979年)、『漂流』(1981年)、松本清張原作の『天城越え』(1983年)、『学校』(1993年)、『河童』(1994年)、大島渚監督の『御法度』(1999年)などに出演。アニメ映画『吾輩は猫である』(1982年)では珍野苦沙弥の声を担当した。
コント55号は解散を宣言しないまま、1977年以降も正月特番や記念番組で単発的に復活した。1992年の『元祖コント55号'92』『どこまでも!コント55号』、1993年の『欽ちゃん二郎さん コントで御免!』などがその例である。歌では1989年にロックバンドのユニコーンと組んだ「デーゲーム」がオリコン最高11位を記録し、世代を超えて話題になった。
晩年と死去(2003年 - 2011年)[編集]
2003年、ゴルフ中に脳梗塞で倒れた。同伴者に医師がいたため処置が早く、比較的軽度で済んだものの、麻痺が残り、一時はリハビリを拒むほど落ち込んだとされる。そこへ萩本が食事に誘い、帰り際に「車椅子でも絶対に明治座に出す」と告げた。坂上は「車椅子で舞台に出たらお客さまに失礼」とリハビリを再開し、2004年6月に明治座の舞台で復帰を果たした。
2005年には栃木県那須塩原市に移り住み、「那須お笑い学校」の名誉校長に就任。東京都練馬区では総合芸能学院「キャメルアカデミー」を開校して学院長を務め、後進の育成に力を入れた。同年、さだまさしの作詞・作曲によるシングル「必殺!人生送りバント」を発表。2006年には地元・鹿児島の社会人野球チーム「鹿児島ホワイトウェーブ」の総監督に就き、背番号は萩本と同じ55を背負った。
2010年8月、再び脳梗塞で倒れて入院。首から下が麻痺する重い症状で、2011年初めに予定していた明治座の初春公演を降板した。見舞いに訪れた萩本に、帰り際、坂上のほうから握手を求めたという。萩本はのちに、あれが「さよなら」だったのかもしれないと語っている。
2011年3月10日午前9時40分、栃木県那須塩原市の病院で脳梗塞のため死去。76歳だった。翌3月11日に東日本大震災が発生し、3月13日に那須塩原市内の斎場で家族葬が営まれた。
人物[編集]
- 大御所になってからも、付き人やマネージャーをつけず一人で現場に来ることがあった。荷物を持とうとするスタッフには「自分のことはやりますから」と断り、同じ現場にいた片岡鶴太郎を驚かせたという。
- 記憶力は抜群で、台本は完璧に頭に入れて本番に臨むタイプだった。「二度同じネタをやったことはなかった」とも語っている。
- 美声と独特の節回しで知られ、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」を好んで歌った。
- 昭和9年生まれの芸能人による親睦団体「昭和九年会」のメンバーだった。
- 萩本のことは「最大のライバル」と公言していた。一方で、記者に萩本との関係を聞かれると、口では「それはないよ!」「もうやってられない!」と言っていたかもしれないが、内心は萩本が言うなら間違いないと信じていた、信頼していなければ続けられなかった、と語っている。
コント55号の歴史[編集]
結成と命名[編集]
コント55号の出発点は、萩本が1966年に熱海温泉での営業中に考えた一人コント「机」である。浅草松竹演芸場への売り込みを準備していたところに坂上から電話があり、坂上が相手役を務めることになった。
1966年10月、同演芸場の上席で前座として「机」を演じたが、最初の反応はいまひとつだった。そこで3日目に2人の役を入れ替えたところ、客席が沸いた。5日目には正式に香盤表に名前が載り、支配人が「コント55号」と名づけた。
名前の由来は、結成の2年前に王貞治が記録したシーズン55本塁打にあやかったという説と、「ゴーゴー(GO! GO!)」の掛け声に由来するという説がある。2人が自分で付けた名前ではないため、真相ははっきりしない。2013年に王の記録がバレンティンに抜かれた際も、萩本は改名する気はないと笑い飛ばしている。
劇場からテレビへ[編集]
1967年2月、日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以後しばらくは、浅草松竹演芸場で新ネタを試し、日劇で練り上げるというサイクルが続いた。
テレビで名前が広まったのは、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の『大正テレビ寄席』だった。2人の動きが激しすぎてカメラが追いつかず、「失敗した」と思った2人が収録後に逃げ帰ろうとしたところ、ディレクターに呼び止められ、逆に「カメラが追いつかなくて申し訳ない」と詫びられたという逸話が残っている。
1968年にはフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』で前田武彦と共演し、続く『コント55号の世界は笑う』で人気は一気に加速した。「テレビでは同じコントを二度とやらない」を看板に掲げ、萩本を「タレ目」、坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。
冠番組ラッシュ[編集]
1969年は55号の当たり年だった。日本テレビの『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』は、萩本扮するテレビディレクターと坂上扮する放送作家が、裏番組を「ぶっ飛ばす」番組を作るという設定のバラエティで、番組内の「野球拳」が大流行。NHK大河ドラマ『天と地と』の視聴率を上回ったことで話題になり。
同年6月10日にはTBSで『みんなで出よう55号決定版!』がスタート。毎週火曜19時30分からの30分番組で、全国の公会堂などから公開生放送された。坂上扮する「赤忍者」のコーナーが人気で、黒装束の正統派アクションのあとに、真っ赤な忍び装束の坂上がずっこけたアクションで笑いをとった。番組は1975年9月23日まで6年あまり続き、後番組の『ぴったしカン・カン』にも2人はキャプテン役で出演した。
このほか『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ)、『チータ55号』(TBS)、『ウォー!コント55号』『コント55号笑ってたまるか』(NET)など、冠番組や看板番組は局をまたいで量産された。
台本とアドリブ[編集]
55号のコントは、作家の岩城未知男が原作者として表記されていたが、実際の台本は主に萩本が書いていた。しかも本番では台本どおりに演じず、ほぼ即興に作り変えることが多く、「自作自演」とも呼ばれた。萩本は、ザ・ドリフターズのような稽古中心の作り方と似た方向になるのを避けるため、あえてその道を選んだと語っている。
一度、井上ひさしの書いた台本を無視して演じたところ、プロデューサーの井原高忠に叱られた。そこで台本を暗記して演じ直すと、井原は「最初のほうが面白かった」と言ったという。作家の小林信彦は55号の笑いを「不条理コント」と評した。
ドリフとのライバル関係[編集]
55号はザ・ドリフターズと子どもたちの人気を二分した。萩本はドリフを「戦友であって宿敵ではない」と表現し、いかりや長介も55号を強く意識していたと証言している。志村けんは、コント55号とドリフのどちらに弟子入りするか迷った末、音楽性を理由にドリフを選んだと語っている。
活動の縮小と「終わり」[編集]
1975年以降、コンビとしての活動は大きく減った。萩本によれば、きっかけはタクシー運転手に「刑事さんをあまりいじめないで」と言われたことだった。坂上が『夜明けの刑事』で人気刑事になったことで、舞台で坂上をいじる芸が本気のいじめと受け取られかねないと感じたという。
2人はこれを「解散」とは呼ばず、単独のコメディアン同士のユニットという位置づけにした。萩本は「始まりが無ければ終わりも無い」と語っている。2009年には「したまちコメディ映画祭in台東」で第2回コメディ栄誉賞を受賞。2010年、坂上の病状を受けて萩本が「コント55号は終わった」と口にしたのが、事実上の終了宣言とされる。そして2011年、坂上の死去によってコンビの歴史は幕を閉じた。
萩本との「距離」[編集]
コンビ仲については、長く「不仲説」がささやかれた。実際、2人がプライベートで一緒に食事をしたのは生涯で2回だけだったと萩本は語っており、「遊ばない・食事しない・夢を語らない」を徹底していたという。萩本はこれを、舞台上の緊張感を保つためだったと説明している。
一方で、2003年の脳梗塞後に坂上を立ち直らせたのは萩本の一言だった。萩本によれば、坂上の妻は、夫が萩本と電話で楽しそうに話す姿を見て、結婚以来初めて見る表情だと驚いたという。萩本の聞き手を務めた作家の増田俊也は、「不仲」の奥で互いを大好きだったのではないか、と指摘している。
主な作品[編集]
テレビドラマ[編集]
| 年 | タイトル | 役・備考 |
|---|---|---|
| 1974年 - 1977年 | 夜明けの刑事(TBS) | 鈴木勇(主演) |
| 1977年以降 | 新・夜明けの刑事(TBS) | 主演(『夜明けの刑事』続編) |
| 1977年以降 | 明日の刑事(TBS) | 主演(シリーズ第3作) |
| 1984年 | スクール☆ウォーズ(TBS) | 内田玄治 |
| 1990年 | 翔ぶが如く(NHK大河ドラマ) | 西郷吉兵衛 |
| 2006年 | 赤い奇跡 | 小林栄作 |
このほか『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』『鬼平犯科帳』『大岡越前』などの時代劇、NHKの『ハイカラさん』(1982年)などに出演した。
映画[編集]
- 『コント55号と水前寺清子の神様の恋人』(1968年、松竹)- 山上次郎太
- 『初恋宣言』(1968年)
- 『コント55号 人類の大弱点』(1969年、東宝)- 駒形二郎
- 『コント55号 宇宙大冒険』(1969年、東宝)- 芹沢角
- 『人斬り』(1969年)- 熊髭
- 『俺は眠たかった!!』(1970年、松竹)- 浅井正太郎
- 『金田一耕助の冒険』(1979年)- 石田五右衛門
- 『漂流』(1981年)- 源右衛門
- 『吾輩は猫である』(1982年、アニメ)- 珍野苦沙弥(声)
- 『天城越え』(1983年)- 旅の菓子屋
- 『オキナワの少年』(1983年)- 製作部長
- 『腕におぼえあり』(1992年)- 相模屋吉蔵
- 『学校』(1993年)
- 『河童』(1994年)- 村長
- 『御法度』(1999年)
- 『福耳』(2003年)- 緑川
主なテレビ番組(バラエティ)[編集]
- 『お昼のゴールデンショー』(フジテレビ、1968年 - )
- 『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ、1968年 - )
- 『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』(日本テレビ、1969年 - 1970年)
- 『みんなで出よう55号決定版!』(TBS、1969年 - 1975年)
- 『チータ55号』(TBS)
- 『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ)
- 『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)
- 『カックラキン大放送!!』(日本テレビ)
- 『ぴったし カン・カン』(TBS、1975年 - )
- 『欽ちゃん二郎さん コントで御免!』(1993年)
主なシングル[編集]
| 年 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1970年 | ワンナイト新宿/花ものがたり | |
| 1974年 | 学校の先生/係長ブルース | 作詞:山上路夫、作曲:大川光久。オリコン最高8位、約30万枚 |
| 1975年 | 鉄道員/北の果て | |
| 1977年 | 春子/佐渡 | |
| 1981年 | 生まれたからには/枕詞がたり | |
| 1983年 | スワローズ音頭 | |
| 1989年 | デーゲーム | ユニコーンとの共同名義。オリコン最高11位 |
| 1991年 | 風まかせ/青春ラプソディ | 『風まかせ 新・諸国漫遊記』エンディングテーマ |
| 2000年 | なぁ…友よ/昔なじみ | |
| 2005年 | 必殺!人生送りバント/飛びます音頭 | 作詞・作曲:さだまさし |
2011年にはベスト盤『ゴールデン☆ベスト 坂上二郎』が発売された。
著書[編集]
- 『たぬき先生たんたんエッセイ』(1975年)
- 『ひとりで歌ってばかりいた』(1984年)
歌手・坂上二郎[編集]
歌手を目指して上京したものの、坂上が歌で大きな成功をつかんだのは、コント55号でブレイクしたあとのことだった。1974年の「学校の先生」は、作詞・山上路夫、作曲・大川光久による歌謡曲で、オリコン最高8位、約30万枚のヒットになった。同じ年に『夜明けの刑事』で主演しており、1974年は俳優と歌手の両面で坂上が最も輝いた年といえる。
その後もコンスタントにシングルを出し続け、1989年にはロックバンドのユニコーンとのデュエット「デーゲーム」がオリコン最高11位を記録。当時の若いロックファンにも「二郎さん」の歌声が届いた。2005年には、さだまさしが作詞・作曲を手がけた「必殺!人生送りバント」を発表している。
歌に対しては真剣で、「歌詞を体で覚えないと歌に感情移入できないし、振り付けの余裕も生まれない」と語っていたことが伝えられている。
死去と追悼[編集]
萩本欽一の会見[編集]
2011年3月10日、萩本は取材先の富山県から戻る途中、車のラジオで坂上の死を知った。羽田空港で報道陣の取材に応じた萩本は、涙をこらえながら「二郎さんが亡くなって、泣きたいけどテレビの前では……。二郎さんは僕の二郎さんだから。(中略)一人で泣かせてもらいます」と語り、「(コント55号の)幕が閉まりました。天国へ持って行きました。心の中では不滅ですけど」と続けた。「悲しい。さびしい。二郎さんのばか」という言葉も残している。
萩本によれば、訃報を聞いた直後は言葉を失い、その夜、NHKのニュースで坂上の人柄を笑顔で伝えるアナウンサーの言葉を聞いて、初めて涙が出たという。
震災のなかの葬儀[編集]
訃報の翌日、東日本大震災が起きた。3月13日の葬儀には、交通網が混乱するなか、萩本が在来線とタクシーを乗り継いで4時間かけて駆けつけた。出棺の際、萩本は遺影を抱え、コント55号の代名詞だったギャグにかけて「飛びます、飛びました」と声をかけて見送った。関根勤、小堺一機、片岡鶴太郎、藤村俊二、『夜明けの刑事』で共演した石橋正次らも追悼のコメントを寄せた。
2020年代の再評価[編集]
没後も、坂上と萩本の関係はメディアで繰り返し語られている。2024年には日刊ゲンダイの連載「昭和スター千一夜物語」が、2025年には漫才作家・本多正識のコラムが坂上を取り上げた。
2026年6月から7月にかけては、日刊ゲンダイで増田俊也が萩本の半生を聞き取る連載「茶の間を変えたコメディアン 欽ちゃんのぜ~んぶ話しちゃう!」が、コント55号の結成秘話や坂上の闘病、生前最後のテレビ共演などを数回にわたって取り上げた。没後15年となる2026年にも、「二郎さん」の話は萩本の口から語られ続けている。
炎上とバズ[編集]
「ハレンチ番組」批判[編集]
1969年に始まった『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』は、野球拳のコーナーが大ブームになった一方、「子どもに見せられない俗悪番組」としてPTAや地域婦人団体連合会などから批判を受けた。下ネタを嫌う萩本に代わって、坂上がアイドル歌手などを相手に野球拳を率先して行ったとされる。大河ドラマの視聴率を上回るほどの人気番組だったが、批判の高まりを受けて1970年3月、約1年で終了した。
余談[編集]
- 萩本は茨城ゴールデンゴールズの監督時代に背番号55を背負い、坂上も鹿児島ホワイトウェーブの総監督として同じ55番をつけた。コンビ名の数字は野球の世界でも受け継がれていた。
- 浅草時代、坂上は台詞を忘れると歌でごまかし、萩本は走り回ってごまかした、という話がある。
- 1975年、『みんなで出よう55号決定版!』の沖縄ロケが悪天候に見舞われたことを、萩本は「番組を終わらせる時期」のサインと受け取り、降板を申し出たとされる。
- 「始まりが無ければ終わりも無い」という萩本の言葉どおり、コント55号には正式な解散発表が存在しない。
外部リンク[編集]
- 浅井企画 公式サイト(所属事務所)
