片岡千恵蔵
かたおか ちえぞう / Chiezō Kataoka
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1955年ごろ(出典:ウィキメディア・コモンズ「Chiezō Kataoka 1955 IMG 20220409 0007.jpg」)
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『曲馬団の魔王』(1953年)のスチール写真(出典:ウィキメディア・コモンズ「Chiezo Kataoka Studio Still from Kyokubadan no Mao Bannai Tarao 1953 Scan10001.jpg」)
本名 植木正義(うえき まさよし)
誕生日 1903年3月30日
死亡日 1983年3月31日
死亡年齢 80歳(数え年81)
出身地 群馬県新田郡藪塚本町(現・太田市)。幼少期から東京で育つ
国籍 日本
ジャンル 映画(時代劇・現代劇)、テレビドラマ、歌舞伎(少年期)
ポジション 主演俳優、東映取締役
活動期間 1912年(片岡少年劇)- 1983年
デビューアルバム 1927年 映画『万花地獄』(マキノ・プロダクション、初主演)
家族 長男:植木基晴(元子役)、長女:植木千恵(元子役)、三男:植木義晴(元日本航空社長)
事務所 片岡千恵蔵プロダクション → 日活 → 大映 → 東横映画 → 東映
代表作 『国士無双』『赤西蠣太』『鴛鴦歌合戦』『宮本武蔵』シリーズ、『多羅尾伴内』シリーズ、金田一耕助シリーズ、『いれずみ判官』シリーズ、『血槍富士』『大菩薩峠』三部作、『赤穂浪士』『十三人の刺客』
関連活動 映画製作(片岡千恵蔵プロダクション主宰)
あだ名 御大(おんたい)、山の御大、ホンタイ、時代劇の貴公子
その他 紫綬褒章(1971年)、勲四等旭日小綬章(1977年)、京都市文化功労者(1977年)


概要[編集]

片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう、1903年3月30日 - 1983年3月31日)とは、戦前から戦後にかけて活躍した日本の映画俳優で、昭和の時代劇を代表する大スターである。20代で自分の映画会社「千恵プロ」を興し、戦後は東映の重役スターとして市川右太衛門と並ぶ「両御大」と呼ばれた。多羅尾伴内、遠山の金さん、そして映画史上初の金田一耕助を演じた人でもある。

詳細[編集]

歌舞伎の子から映画スターへ[編集]

本名は植木正義。群馬県の生まれで、幼いころから東京で育った。9歳だった1912年、十一代目片岡仁左衛門が主宰する「片岡少年劇」に入門し、片岡十八郎の名で舞台に立つ。1923年には明治座で名題に昇進するが、家柄がものを言う歌舞伎の世界では、門閥の外から来た若者が大役をつかむのは難しかった。

1927年、踊りの稽古中に師匠から刀の峰で顔を打たれたことがきっかけで歌舞伎に見切りをつけた、と伝えられている。同じ年にマキノ・プロダクションへ入社し、『万花地獄』で初主演。芸名も片岡千栄蔵を経て「片岡千恵蔵」に落ち着いた。端正な顔立ちと明るい雰囲気で、たちまち人気スターの仲間入りを果たす。

24歳で映画会社の社長に[編集]

千恵蔵のすごいところは、スターになって1年もたたない1928年に、マキノを辞めて自分の会社「片岡千恵蔵プロダクション」(通称:千恵プロ)を作ってしまったことだ。当時はスターが独立プロを立ち上げるのがブームだったが、多くは数年で潰れている。千恵プロは最初の1年で6本を作り、翌1929年には京都の嵯峨野に自前の撮影所まで建てた。

千恵プロの看板になったのが、脚本家・監督の伊丹万作と、監督の稲垣浩という若い才能だった。伊丹の『国士無双』(1932年)や『赤西蠣太』(1936年)、稲垣の『瞼の母』『弥太郎笠』などは、時代劇なのに現代劇のような軽さとユーモアがあり、「髷をつけた現代劇」と呼ばれた。千恵プロの作品のうち17本がキネマ旬報ベストテンに入ったとされ、スター独立プロの中でもっとも長く、もっとも質の高い会社として映画史に名を残している。

戦後の「両御大」時代[編集]

千恵プロは1937年に解散し、千恵蔵は日活京都撮影所に入る。1942年の戦時統合で日活の製作部門が大映に組み込まれると大映の所属となり、戦後は大映で『多羅尾伴内』シリーズを当てた。しかし1948年、大映社長の永田雅一との関係がこじれて大映を離れ、東横映画へ移籍する。

1951年に東横映画などが合併して東映が発足すると、千恵蔵は市川右太衛門とともに取締役に名を連ね、俳優でありながら会社の重役という「重役スター」になった。社長の大川博の下、2人は撮影所の頂点に立つ存在として「両御大(りょうおんたい)」と呼ばれた。東映時代だけで約130本に出演し、1950年代の東映時代劇の黄金期を最前線で支えた。

経歴[編集]

少年劇とマキノ時代(1912年 - 1928年)[編集]

  • 1912年:片岡少年劇に入門。
  • 1923年:明治座で名題に昇進。この年に映画への出演経験もあったとされる。
  • 1927年:マキノ・プロダクションに入社。『万花地獄』で初主演し、一躍人気者に。
  • 1928年4月:マキノを退社。

千恵プロ時代(1928年 - 1937年)[編集]

1928年5月10日に片岡千恵蔵プロダクションを設立。第1作は伊丹・稲垣コンビによる『天下太平記』で、レンタルの撮影所で撮影した。1929年1月からは嵯峨野に自前のスタジオを建てながら撮影を続けるという、勢いのある船出だった。1934年にはトーキー(音の出る映画)用のステージを作り、1935年には2つ目のトーキーステージも増設している。

監督陣には伊丹万作・稲垣浩のほか、マキノ正博、伊藤大輔、山中貞雄といった名前も並ぶ。山中が千恵プロで撮った『風流活人剣』は、のちに日本映画史の重要作と語られる山中作品の一つだ。約10年間で90本を超える作品を世に出し、1937年の『浅野内匠頭』は記念すべき100本目にあたる作品とされている。

解散の理由は経営難ではなかったとされる。日活の看板スターだった大河内傳次郎が他社へ移ったため、日活が千恵蔵の力を欲しがり、日活に吸収される形で1937年4月に幕を閉じた。

日活・大映時代(1937年 - 1948年)[編集]

日活では1940年から『宮本武蔵』シリーズに主演し、武蔵役は生涯で10本に及んだとされる。1939年のマキノ正博監督『鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)』は、志村喬らと共演した時代劇ミュージカル(オペレッタ)で、千恵蔵が軽やかに歌う姿が見られる珍しい一本だ。

1942年に日活の製作部門が大映に統合されると、そのまま大映所属に。戦後の1946年、GHQの方針でチャンバラ時代劇が作りにくくなると、大映は千恵蔵を現代劇の探偵に起用し、『七つの顔』(1946年)が大ヒット。翌1947年には『三本指の男』で金田一耕助を演じた。

東映の重役スター時代(1949年 - 1972年)[編集]

1949年に東横映画へ移り、1951年の東映発足とともに取締役となる。多羅尾伴内シリーズの再開、『いれずみ判官』シリーズ、内田吐夢監督との『血槍富士』『大菩薩峠』三部作、オールスター大作『赤穂浪士』など、東映時代劇のど真ん中で主役を張り続けた。

1960年代に入ると時代劇人気は下り坂となり、東映は鶴田浩二や高倉健を中心とする任侠路線へとかじを切っていく。そんな中でも1963年の工藤栄一監督『十三人の刺客』では、暴君暗殺を命じられた目付・島田新左衛門を重厚に演じ、「集団抗争時代劇」の傑作として今も語り継がれている。

テレビと晩年(1970年 - 1983年)[編集]

1970年代に入ると映画から遠ざかり、テレビドラマへ活動の場を移す。TBSの『大岡越前』では主人公・大岡忠相の父である大岡忠高を演じ、NET(現・テレビ朝日)では『軍兵衛目安箱』『世なおし奉行』に主演した。1971年に紫綬褒章、1977年に勲四等旭日小綬章を受け、同年には京都市の文化功労者にも選ばれている。

1983年3月31日、腎不全のため死去。80歳の誕生日を迎えた翌日のことだった。4月15日には東映による社葬が営まれ、時代劇の一時代が幕を下ろした。

作風・人物像[編集]

「明るさ」の時代劇スター[編集]

各種の人名事典が千恵蔵の持ち味として口をそろえて挙げるのが「明朗さ」だ。若いころの美剣士役にはどこかユーモアがあり、中年以降に豪快な親分や虚無的な剣客を演じても、根っこに明るさがにじむ。同時代の阪東妻三郎や大河内傳次郎が剣戟の迫力で鳴らしたのに対し、千恵蔵は人間味と愛嬌で客をつかんだタイプだといえる。

長谷川一夫・阪東妻三郎・大河内傳次郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」の一人に数えられることも多い。

実はチャンバラが苦手?[編集]

意外なことに、千恵蔵自身は立ち回り(チャンバラ)があまり得意ではないと語っていたという。そこで千恵プロ時代の稲垣浩は、斬り合いを減らしてドラマや笑いで見せる作品を工夫したとされる。逆に、ふんどし姿もあらわな豪快な大立ち回りが観客に受けたという話もあり、苦手を個性に変えてしまうのも千恵蔵流だった。

トーキー時代には、独特の重みのある「千恵蔵の声」を作り上げたとされ、遠山の金さんの啖呵や多羅尾伴内の名乗りなど、声で記憶されている場面が多いのも特徴だ。

「七つの顔」を持つ男[編集]

平凡社の『世界大百科事典』は、千恵蔵を当たり役の多さから「七つの顔」を持つスターと評している。同事典が挙げる主な役柄と演じた本数は次のとおり。

役柄 本数 主な作品
遠山金四郎 18本 『いれずみ判官』シリーズ
多羅尾伴内 11本 『七つの顔』『片目の魔王』ほか
宮本武蔵 10本 日活版『宮本武蔵』シリーズほか
国定忠治 9本 『国定忠治』(1958年)ほか
浅野内匠頭 8本 『浅野内匠頭』(1937年)ほか
大石内蔵助 6本 『赤穂浪士』(1956年・1961年)ほか
机竜之助 6本 『大菩薩峠』三部作ほか

この表に金田一耕助(6本)まで加わるのだから、まさに「七つの顔」以上である。

代表作[編集]

多羅尾伴内シリーズ[編集]

GHQの占領下でチャンバラ映画が作りにくくなった1946年、大映の脚本家・比佐芳武が「時代劇スター千恵蔵のための現代劇」として書いたのが『七つの顔』だった。刀の代わりに拳銃を握った千恵蔵は、さまざまな人物に変装して悪の組織に潜り込み、クライマックスで正体を明かす。チャンバラの代わりに銃撃戦を見せる「時代劇スターの現代劇」は試写の評判こそ芳しくなかったが、公開されるや大ヒットした。

決め台詞は「ある時は○○、またある時は××、しかしてその実体は……!」という名乗りで、正体は「正義と真実の使徒」藤村大造。元は怪盗だった義賊という設定で、事件を解決すると詩を残して去るのがお約束だった。批評家からは荒唐無稽と叩かれたが、興行は大当たり。大映で4本(1946年 - 1948年)、東映で7本(1953年の『片目の魔王』から1960年の『七つの顔の男だぜ』まで)、計11本が作られた。1978年には小林旭主演でリメイクされている。

『いれずみ判官』(遠山の金さん)シリーズ[編集]

桜吹雪の刺青を背負った北町奉行・遠山金四郎、いわゆる「遠山の金さん」も千恵蔵の代名詞だ。1950年から1962年にかけて計18本が作られ、町人に身をやつした金さんが悪事を探り、お白洲で片肌を脱いで刺青を見せるという、のちのテレビ時代劇にも受け継がれる型を広めた。1960年の『御存じ いれずみ判官』(佐々木康監督)では、父の濡れ衣をきっかけに加賀藩乗っ取りの陰謀に挑む。

千恵蔵本人が語った金さんの名台詞として、「花も吉野の千本桜」で始まる口上が知られている。

金田一耕助シリーズ[編集]

横溝正史が生んだ名探偵・金田一耕助を初めてスクリーンで演じたのが千恵蔵だ。1947年の『三本指の男』(原作は『本陣殺人事件』)を皮切りに、1956年までに次の6本が作られた。

  • 『三本指の男』(1947年)
  • 『獄門島』(1949年)
  • 『八ツ墓村』(1951年)
  • 『悪魔が来りて笛を吹く』(1954年)
  • 『犬神家の謎 悪魔は踊る』(1954年)
  • 『三つ首塔』(1956年)

千恵蔵の金田一は、原作のよれよれの着物に袴、もじゃもじゃ頭ではなく、背広にソフト帽の二枚目で、変装もこなす「華麗なる名探偵」だった。このイメージがあまりに強く、以後約30年は洋装の金田一が当たり前になったとも指摘される。高倉健が1961年に演じた金田一もその流れにあり、原作どおりの姿は1976年の市川崑監督・石坂浩二主演『犬神家の一族』まで待たねばならなかった。

『血槍富士』(1955年)[編集]

中国から帰国した内田吐夢監督の戦後第1作。千恵蔵が演じたのは、若い主君の供をして東海道を江戸へ向かう槍持ちの権八という、スターらしからぬ身分の低い男だ。道中で出会う旅人たちとの人情劇がのどかに続いたあと、終盤で主君の身に起きた理不尽に、権八が槍を手に怒りを爆発させる。武士道への痛烈な問いを含んだ作品として評価が高く、千恵蔵の代表作の一つに数えられる。

『大菩薩峠』三部作(1957年 - 1959年)[編集]

中里介山の大長編を内田吐夢が映画化した三部作で、千恵蔵は虚無に取りつかれた剣客・机竜之助を演じた。第1作は1957年7月公開。宇津木兵馬役に中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、ほかに月形龍之介、大河内傳次郎らが顔をそろえた豪華な布陣だった。明るさが持ち味の千恵蔵が、理由もなく人を斬る暗い男を演じきったことで、役者としての幅を見せつけた。

『十三人の刺客』(1963年)[編集]

工藤栄一監督による東映の集団抗争時代劇。明石藩主の暴君を討つため、千恵蔵演じる島田新左衛門が12人の仲間を集め、宿場町を丸ごと罠に変えて待ち伏せる。音楽は伊福部昭。終盤の延々と続く死闘は時代劇史に残る名場面とされ、2010年には役所広司主演でリメイクされた。

その他の主な出演作[編集]

公開年 作品 役・備考
1932年 国士無双 伊丹万作監督。偽者が本物を打ち負かす痛快喜劇
1936年 赤西蠣太 伊丹万作監督。風采の上がらない侍と色男の二役
1939年 鴛鴦歌合戦 マキノ正博監督。時代劇オペレッタ
1946年 七つの顔 多羅尾伴内シリーズ第1作
1947年 三本指の男 初の映画版金田一耕助
1955年 血槍富士 内田吐夢監督。槍持ち権八
1956年 赤穂浪士 大石内蔵助
1957年 大菩薩峠 机竜之助(三部作第1作)
1958年 国定忠治 国定忠治
1961年 赤穂浪士 大石内蔵助。市川右太衛門が千坂兵部
1963年 十三人の刺客 島田新左衛門

市川右太衛門との「両御大」[編集]

東映で千恵蔵と並び立ったのが、『旗本退屈男』で知られる市川右太衛門だ。2人はともに東映発足時からの取締役で、撮影所では「御大(おんたい)」と呼ばれた。住まいにちなみ、千恵蔵は「山の御大」、右太衛門は「北大路の御大」(北の御大)と呼び分けられていた。右太衛門の息子が、のちに俳優となる北大路欣也である。

両者の存在感は撮影所の現場にも影響した。斬られ役の大部屋俳優たちは、それぞれの御大の殺陣の呼吸や間合い、好みを覚えていくうちに、自然と「山」担当と「北」担当に分かれていったという。派閥というほどではないが、2人の流儀がそれだけ違っていたということだろう。

同格の2人がそろうと、作品はそれだけで大作になった。1961年の『赤穂浪士』では千恵蔵の大石内蔵助に、右太衛門が上杉家家老の千坂兵部として対峙する。本来の忠臣蔵では直接絡まない2人に「同門」という設定を加え、言葉を交わさずに火花を散らす場面を作ったことが、オールスター映画ならではの見どころとして評論家に挙げられている。

家族[編集]

子どもたちのうち何人かは、幼いころ父の映画に出演している。長男の植木基晴は子役として活躍し「千恵蔵二世」と呼ばれた。長女の植木千恵も東映時代に父と共演したのち、芸能界を離れている。

三男の植木義晴は俳優の道に進まず、航空大学校を経て1975年に日本航空に入社し、パイロットとして35年間空を飛んだ。経営破綻後の再建期にあった2012年、パイロット出身者として初めて日本航空の社長に就任し、「飛行機を飛ばすという仕事が唯一の自慢だった」と語ったことが報じられている。2024年には父がかつて重役を務めた東映の社外取締役に就任する見通しと報じられ、親子二代で東映の役員に名を連ねる形となった。

評価・影響[編集]

千恵プロは、スターが自らプロデューサーとなって若い監督を育てた先駆的な例として高く評価されている。伊丹万作や稲垣浩の才能が花開いたのは千恵蔵が場を与えたからであり、俳優としてだけでなく「日本映画の名伯楽」としての功績も大きい。

戦後の東映では、重役スターとして作品の企画や配役にも強い影響力を持ったとされる。後輩たちにとっては雲の上の存在で、若山富三郎は少年時代から千恵蔵に憧れており、千恵蔵がかつて使っていた楽屋を受け継いだときには大いに感激したという話が残っている。

一方、金田一耕助や多羅尾伴内のような「荒唐無稽」な娯楽作も平気で引き受けたことから、当時の批評家からは軽く見られることもあった。しかし多羅尾伴内の「ある時は」の名乗りはパロディの定番となり、洋装の金田一というイメージはその後の映像化にも影響を与えた。娯楽と芸術の両方で足跡を残した、まれなスターといえる。

2023年には、千恵蔵主演の『鴛鴦歌合戦』を原作にした宝塚歌劇団花組の公演が上演され、80年以上前の千恵蔵映画が新たな形でよみがえった。

余談[編集]

  • 昭和の初め、買ったばかりのキャデラックを無免許のまま運転し、京都の池に落としてしまったという豪快な逸話がある。
  • 大の麻雀好きで、晩年は名古屋市に建てた自社ビルの2階で麻雀屋を営んでいたとされる。
  • 1931年の『元禄十三年』で共演した女優の入江たか子にすっかり惚れ込んでいた、という話が伝わっている。
  • 千恵蔵を慕う映画人の同窓会「嵯峨野学園」では、千恵蔵が「園長」と呼ばれていた。
  • 1978年には小林旭主演で多羅尾伴内がリメイクされたが、2作目の興行が振るわず2本で打ち切りとなった。
  • 誕生日が3月30日、命日が3月31日。80歳の誕生日を迎えた翌日に世を去った。

外部リンク[編集]

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