市川右太衛門
いちかわ うたえもん / Utaemon Ichikawa
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1956年ごろの市川右太衛門。東映「両御大」として時代劇の頂点にいた時期(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
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1925年、マキノ・プロダクションで映画デビューしたころの右太衛門(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 淺井善之助(あさい ぜんのすけ)
誕生日 1907年2月25日
死亡日 1999年9月16日
死亡年齢 92歳(数え年93)
出身地 大阪市西区(香川県丸亀市生まれとする資料もあるが、本人は著書で否定)
国籍 日本
ジャンル 時代劇映画、舞台、テレビドラマ
活動期間 1913年(初舞台) - 1990年代
デビューアルバム 1925年 マキノ・プロダクション『黒髪地獄』
家族 次男:北大路欣也(俳優)、兄:山口天龍(映画製作者)
事務所 市川右太衛門プロダクション(右太プロ)→松竹→新興キネマ→大映→東横映画→東映(取締役兼任)
代表作 『旗本退屈男』シリーズ(早乙女主水之介役)、『父子鷹』、『赤穂浪士』、『任侠清水港』、『元禄忠臣蔵』
ファンクラブ 三日月党(後援会)
関連活動 東映取締役(1951年 - 1966年ごろ)
あだ名 右太さん、北大路の御大、御大
その他 紫綬褒章(1972年)、勲四等旭日小綬章(1979年)、牧野省三賞(1961年度)、日本アカデミー賞会長特別賞(1995年・2000年)


概要[編集]

市川右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年2月25日 - 1999年9月16日)とは、戦前から戦後にかけて活躍した日本の時代劇俳優である。眉間に三日月の傷を持つ『旗本退屈男』早乙女主水之介を33年間・30本以上にわたって演じ続け、東映では片岡千恵蔵と並ぶ「両御大」として重役を兼ねながら時代劇黄金期を背負った。俳優・北大路欣也の父でもある。

詳細[編集]

「時代劇六大スタア」のひとり[編集]

右太衛門は、阪東妻三郎・大河内傳次郎・嵐寛寿郎・片岡千恵蔵・長谷川一夫と並んで「時代劇六大スタア」に数えられる大スターである。映画の主演本数は300本超、資料によっては出演作が360本を超えるとされ、ほぼ全てで主役を張った。辞典類でも「娯楽映画の主役にこだわり、主役以外では映画に出なかった」と書かれるほどで、脇に回ってでも渋い役を取りに行くタイプではなく、とにかくスクリーンの真ん中で華やかに立つことを貫いた「スターの中のスター」だった。

日本舞踊と歌舞伎が生んだ所作[編集]

右太衛門の強みは、幼いころから叩き込まれた上方舞(山村流)と関西歌舞伎の素養にある。立ち姿の美しさ、刀を抜く瞬間の型の決まり方、余裕たっぷりの立ち回りは、舞台で鍛えた身体があってこそのもの。共同通信の用語解説でも「華麗な所作と痛快な立ち回り」がスターになった理由として挙げられている。さらに舞台仕込みの声量と発声法のおかげで、サイレントからトーキーへの移行期に多くのスターが苦しむなか、右太衛門は「トーキー役者として最初に成功した一人」とまで評された。

東映の「重役スター」[編集]

1951年に東映が発足すると、右太衛門は片岡千恵蔵とともに取締役に就任し、俳優でありながら会社の経営陣にも名を連ねた。撮影所では本名から「浅井取締役」とも呼ばれ、千恵蔵の「植木取締役」と並ぶ存在だった。住まいの場所から、千恵蔵が「山の御大」、右太衛門が「北大路の御大」と呼ばれ、二人あわせて「両御大」。東映時代劇の序列と顔ぶれは、この二人を頂点に組み立てられていた。

次男・北大路欣也へと続く系譜[編集]

右太衛門の次男が、現在も第一線で活躍する俳優の北大路欣也である。北大路という芸名は、右太衛門の邸宅が京都の北大路にあったことに由来する。欣也は1956年、父が勝小吉を演じた東映映画『父子鷹』で、息子・勝麟太郎(のちの勝海舟)の少年時代を演じてデビューした。親子二代で東映時代劇の看板を担い、のちに欣也自身も父の当たり役・早乙女主水之介をテレビで演じることになる。

経歴[編集]

生い立ちと少年歌舞伎[編集]

1907年(明治40年)2月25日、大阪市西区に生まれる。本名は淺井善之助。生家は鉄工所を営み、祖父は香川県坂出の旧家の出身だった。そのため香川県丸亀市生まれとする資料も多いが、本人は著書でこれを否定している。両親が遊芸好きだったこともあり、5歳で山村流の日本舞踊を習い始め、6歳のときに初代中村扇雀一座の『菅原伝授手習鑑』で菅秀才を演じて初舞台を踏んだ。小学校卒業後は二代目市川右團次に弟子入りして「市川右一」を名乗り、関西の青年歌舞伎で『勧進帳』の弁慶なども演じた。

マキノ入りと右太プロ設立[編集]

1924年には帝国キネマからの誘いを断ったが、1925年、日本映画の父・牧野省三が率いるマキノ・プロダクションに入社し「市川右太衛門」と改名。同年12月25日公開の『黒髪地獄』で映画デビューした。当時の立ち回りが平均10手ほどだったところを、約20手の殺陣を見せて評判になったという。1926年には『快傑夜叉王』『孔雀の光』などに主演して早くも人気スターとなる。

ところが1927年2月、マキノを退社。本人は、入社時に口約束されていたボーナス1万円が払われなかったことが独立の一因だったと語っている。同年4月には笹川良一の支援を受けて「市川右太衛門プロダクション」(右太プロ)を設立し、奈良のあやめ池遊園地(現在の奈良市あやめ池北)の敷地内に撮影所を建てた。20歳そこそこで自分の撮影所を持つという、今では考えられない独立劇である。

旗本退屈男の誕生とトーキー[編集]

右太プロは1928年から松竹キネマの配給となり、1929年には伊藤大輔監督の『一殺多生剣』を発表。そして1930年、佐々木味津三の小説を原作にした『旗本退屈男』で、ついに生涯の当たり役・早乙女主水之介と出会う。右太プロ時代だけで初作と続編あわせて8本が作られた。

1932年には松竹のトーキー『忠臣蔵』で2役を演じ、声の良さでトーキー時代を乗り切った。本人は「セリフが言えるのがうれしかった」という趣旨の回想を残している。しかし1936年、右太プロは松竹に吸収合併され、あやめ池撮影所は閉鎖された。

戦中期:新興キネマから大映へ[編集]

1937年に新興キネマ京都太秦撮影所へ移籍。この時期には松竹太秦で『富士に立つ退屈男』、新興キネマで『宝の山に入る退屈男』を撮ったが、戦時色が強まるなか、遊び人風の旗本が暴れ回る作品に軍当局が難色を示し、シリーズはいったん打ち止めとなった。『無法松の一生』などの企画も流れている。1941年から1942年にかけては溝口健二監督の大作『元禄忠臣蔵』(松竹)に出演し、徳川綱豊(のちの家宣)を演じた。1942年、戦時統合で新興キネマが日活などと合併して大映が誕生すると大映所属となり、終戦までに時代劇8本に出演した。

東横映画から東映へ[編集]

戦後、GHQの方針で時代劇、とくにチャンバラは厳しい制約を受けた。1949年秋に大映を退社した右太衛門は東横映画に移り、1950年の『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』で退屈男を復活させる。翌1951年、東横映画・太泉映画・東京映画配給が合併して東映が発足すると、その設立に参加して取締役に就任した。ここから1963年までの12年間、二本立て興行の看板として年平均9本というハイペースで時代劇に主演し続ける。

1956年の『赤穂浪士』では大石内蔵助を演じてブルーリボン賞大衆賞を受賞。1958年の『旗本退屈男』は主演300本記念作品として作られ、片岡千恵蔵・大友柳太朗・中村錦之助(のちの萬屋錦之介)・東千代之介・大川橋蔵・里見浩太朗、そして息子の北大路欣也まで東映の看板スターが総出演するオールスター映画になった。1961年には映画界に功績のあった人物に贈られる牧野省三賞を受けている。

映画からの引退と舞台・テレビ[編集]

1960年代に入ると時代劇映画の観客は急速に減り、東映は鶴田浩二や高倉健を中心とした任侠映画路線へ舵を切る。右太衛門の映画出演は1964年の『忍び大名』が最後となった。同年にはNET(現在のテレビ朝日)制作の『徳川家康』でテレビドラマ初主演。1966年ごろ、東映から取締役を退いて相談役になるよう打診されたのを機に退社し、長く住んだ京都を離れて東京へ移った。以後は舞台を中心に活動し、1973年から1974年にはNETで連続ドラマ版『旗本退屈男』(全25話)に主演している。

晩年[編集]

1972年に紫綬褒章、1979年に勲四等旭日小綬章を受章。1986年には歌舞伎座の俳優祭で六代目中村歌右衛門と共演し、同年には『旗本退屈男』で北大路欣也と親子共演を果たし、欣也が若き日の主水之介、右太衛門が壮年の主水之介を演じた。1992年には自伝的著書『旗本退屈男まかり通る』(東京新聞出版局)を刊行。1994年に日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞、1995年に日本アカデミー賞会長特別賞を受けた。1998年に夫妻で千葉県内の介護施設に入り、1999年9月16日、老衰のため92歳で死去。没後の2000年には日本アカデミー賞会長特別賞とエランドール賞特別賞が贈られた。

旗本退屈男[編集]

どんな作品?[編集]

原作は佐々木味津三の時代小説で、1929年に雑誌『文芸倶楽部』で連載が始まった。主人公の早乙女主水之介は、無役ながら1200石取りの直参旗本。泰平の元禄の世で暇を持て余し、退屈しのぎに江戸の怪事件へ首を突っ込んでは悪人をばっさり斬る、という痛快な勧善懲悪ものである。トレードマークは眉間の三日月形の刀傷で、映画では将軍からも「天下御免」のお墨付きを得ている設定。悪党の前で「この眉間の傷が目に入らぬか」と見得を切るのがお約束で、のちの『水戸黄門』の印籠シーンに通じる「決め」の様式を確立した作品ともいえる。

33年・30本の記録[編集]

右太衛門は1930年の第1作から1963年の『旗本退屈男 謎の竜神岬』まで、およそ33年にわたって主水之介を演じ続けた。数え方によって30本とも31本ともされ、内訳は右太プロ版8本、松竹太秦版・新興キネマ版が各1本、東横版2本、東映版18本ほど。同じ俳優が同じ役を30年以上演じ続けたのは日本映画で他に例がないとされる。本人は「百歳になっても退屈男を演りたい」と公言していた。

諸羽流青眼崩し[編集]

主水之介の必殺剣が「諸羽流青眼崩し」(原作表記は正眼崩し)。右太衛門はこの型を、狭い室内での立ち回りを想定して考案したと語っている。また映画のカメラ映えを意識し、刀を左手前に構える独特のポーズも編み出した。舞踊仕込みの体さばきで、斬り合いの最中でもまったく着崩れしない優雅さこそが「右太衛門の退屈男」の真骨頂だった。

衣装はファッションショー[編集]

退屈男最大の見どころは、ほぼシーンごとに替わる豪華絢爛な衣装である。1作につき12〜13着をすべて新調し、主人公の衣装代だけで全体の衣装費の約8割を占めたという。デザインには日本画家の甲斐荘楠音が深く関わり、女物の生地を仕立て直した大胆な柄の着流しが多かった。時代劇研究家の春日太一は、シリーズ初のワイドカラー作品『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』(1957年)を「右太衛門のファッションショーを楽しむ映画」と評し、クライマックスの連獅子姿から空と雲柄の衣装への早替わりを絶賛している。これらの衣装は現在も東映太秦映画村に保存されている。

テレビでのリメイク[編集]

退屈男は右太衛門以外の俳優でも何度もドラマ化された。1970年にはフジテレビ版で高橋英樹が主水之介を演じ、1973年には右太衛門本人がNET版に主演。のちに北大路欣也がテレビで父の当たり役を引き継ぎ、テレビ関係者からは「見事、父親を乗り越えた」と評された。北大路版では三日月傷の由来が、次期将軍をめぐる御前試合で相手の腕と引き換えに負った傷とアレンジされている。

主な出演作[編集]

戦前[編集]

  • 『黒髪地獄』(1925年、マキノ) - 映画デビュー作
  • 『快傑夜叉王』『孔雀の光』(1926年、マキノ)
  • 『一殺多生剣』(1929年、右太プロ/伊藤大輔監督)
  • 『旗本退屈男』(1930年、右太プロ) - シリーズ第1作
  • 『忠臣蔵』(1932年、松竹) - 脇坂淡路守ほか2役
  • 『富士に立つ退屈男』(1937年、松竹太秦)
  • 『宝の山に入る退屈男』(1938年、新興キネマ)
  • 『元禄忠臣蔵』前篇・後篇(1941年・1942年、松竹/溝口健二監督) - 徳川綱豊

戦後・東映時代[編集]

  • 『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』(1950年、東横映画) - 戦後のシリーズ復活作
  • 『父子鷹』(1956年、東映) - 勝小吉。息子・北大路欣也のデビュー作
  • 『赤穂浪士』(1956年、東映) - 大石内蔵助
  • 『任侠清水港』(1957年、東映) - 大前田英五郎
  • 『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』(1957年、東映) - シリーズ初のワイドカラー
  • 『旗本退屈男』(1958年、東映/松田定次監督) - 主演300本記念のオールスター作品
  • 『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』(1959年、東映) - 脇坂淡路守
  • 『旗本退屈男 謎の大文字』(1959年、東映/佐々木康監督)
  • 『赤穂浪士』(1961年、東映) - 上杉家家老・千坂兵部
  • 『旗本退屈男 謎の竜神岬』(1963年、東映) - シリーズ最終作
  • 『忍び大名』(1964年、東映) - 最後の映画出演

テレビ[編集]

  • 『徳川家康』(1964年、NET) - テレビドラマ初主演
  • 『旗本退屈男』(1973年 - 1974年、NET、全25話) - 早乙女主水之介

片岡千恵蔵との「両御大」[編集]

東映の二大巨頭[編集]

東映時代劇の歴史は、右太衛門と片岡千恵蔵という二人の「御大」抜きには語れない。ともにマキノ出身で、ともに独立プロを率いた経歴を持ち、東映では揃って取締役となった。千恵蔵が『多羅尾伴内』『いれずみ判官』(遠山の金さん)などの現代劇・捕物系で人気を得たのに対し、右太衛門は『旗本退屈男』に象徴される華麗で絢爛な時代劇の担い手で、作風のすみ分けもはっきりしていた。

オールスター忠臣蔵での「格」[編集]

東映がオールスターで忠臣蔵を作る際、両御大をどう配置するかは毎回の大問題だった。1956年の『赤穂浪士』では右太衛門が大石内蔵助を演じ、1961年の『赤穂浪士』では千恵蔵が大石、右太衛門は上杉家の家老・千坂兵部に回った。春日太一の解説によれば、本来の忠臣蔵では大石と直接絡まない千坂兵部を、この作品では大石のかつての同門という設定にし、言葉を交わさずとも火花を散らす名場面を作り上げたという。同格の大スター同士を対等に見せるための脚色であり、両御大の存在感がいかに作品づくりを左右していたかがわかる。

後輩たちから見た御大[編集]

東映時代劇の後輩世代にとって、両御大は文字通り雲の上の存在だった。若山富三郎が1959年に東映へ移籍した際も、千恵蔵や右太衛門、中村錦之助らスターがひしめくなかで埋もれてしまったとされる。また松方弘樹と北大路欣也は「二世スターコンビ」として売り出されたが、父親同士(右太衛門と近衛十四郎)が師弟関係にあったこともあり、二人は生涯よきライバルとして比べられ続けた。

人物・エピソード[編集]

息子の俳優入りには反対[編集]

北大路欣也によると、右太衛門は当初、息子が俳優になることに強く反対し「お前にできるか」と問いただしたという。最終的にはマキノ光雄プロデューサーと松田定次監督の後押しでデビューが実現した。右太衛門が1961年度に受けた牧野省三賞を、2022年に北大路も受賞し、約60年越しの「父子受賞」として話題になった。北大路は受賞時に父との逸話を明かし、感慨を語っている。

「可愛い子には旅をさせろ」[編集]

1966年ごろに東映を離れて京都から東京へ移った際、息子のことを問われた右太衛門は「可愛い子には旅をさせろ」と語ったとされる。厳しくも息子の独り立ちを見守る、昔気質の父親像がうかがえる。

驚異の健康法[編集]

晩年まで健康には人一倍気を遣い、80歳を過ぎても毎日1〜2時間の散歩を欠かさず、月に1回は皇居の周りをジョギングしていたという。歯も入れ歯なしで自前だったとされ、「百歳まで退屈男」の宣言もあながち冗談ではなかった。

後援会「三日月党」[編集]

1966年ごろ、落語家の五代目柳家小さんが「家老役」となって後援会「三日月党」が結成された。名前はもちろん退屈男の三日月傷にちなむ。各界の著名人が集まり、10年以上続いたという。

評価[編集]

右太衛門に対する評価は「スターの華」の一点に集約される。辞典類では、押し出しのよい二枚目、トーキー時代劇で最初に成功した一人、東映の重役スターとして時代劇黄金期を支えた人物といった言葉が並ぶ。新撰芸能人物事典では、東映の重役として会社を発足後わずか5年で業界トップに押し上げた功労者としても紹介されている。近年は春日太一のように、細かな整合性より大スターの作り出す非現実的な美しさを楽しむという「黄金時代ならではの見方」を再評価する声もある。

炎上とバズ[編集]

1998年、右太衛門夫妻が介護施設に入居したことが報じられると、息子の北大路欣也を批判する声が上がったとされる。北大路は2001年、女性誌の取材で、介護の事情を踏まえて家族で話し合って決めたことだと説明し反論している。当時は高齢の親を施設に預けることへの世間の目がまだ厳しかった時代で、今振り返ると介護をめぐる価値観の変化を象徴する出来事ともいえる。

余談[編集]

  • 北大路欣也の「北大路」は京都の地名由来で、美食家の北大路魯山人とは関係ない。
  • タレントの上岡龍太郎が紹介した話によると、『雪之丞変化』の脇役で出演依頼を受けた右太衛門は、それを主役の依頼と勘違いし「雪之丞は(年齢的に)無理です」と断ったという。
  • 映画評論家の田山力哉から、フランス映画『ヘッドライト』の翻案を提案されたが、自分は白塗りでの芝居をする役者だという理由で断ったとされる。
  • デビュー作で見せた約20手の立ち回りは、当時としては破格の長さだったという。
  • 兄の山口天龍も映画界に身を置き、1936年に全勝キネマを設立している。
  • 『旗本退屈男』で使われた衣装は東映太秦映画村に保存されており、デザインに関わった甲斐荘楠音の仕事とあわせて語られることが多い。

外部リンク[編集]

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