萬屋錦之介
よろずや きんのすけ / Kinnosuke Yorozuya(旧芸名:中村錦之助 / Kinnosuke Nakamura)
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中村錦之助時代(『アサヒグラフ』1954年12月22日号より、出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
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『新諸国物語 笛吹童子』(東映、1954年)の菊丸役(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 小川錦一(おがわ きんいち)
誕生日 1932年11月20日
死亡日 1997年3月10日
死亡年齢 64歳(数え年66)
出身地 東京都(現・港区青山)
国籍 日本
学歴 暁星小学校卒業、旧制暁星中学校中退
ジャンル 時代劇映画、テレビ時代劇、歌舞伎・舞台
活動期間 1936年(初舞台) - 1997年
デビューアルバム 1954年 映画『ひよどり草紙』(美空ひばり主演作の相手役)
家族 父:三代目中村時蔵(歌舞伎役者)、伯父:初代中村吉右衛門、叔父:十七代目中村勘三郎、弟:中村嘉葎雄、甥:二代目中村獅童・二代目中村錦之助ほか、妻:有馬稲子(1961年 - 1965年)、淡路恵子(1966年 - 1987年)、甲にしき(1990年 - 1997年)
身長 / 体重 162cm cm / ― kg
事務所 中村プロダクション(1968年設立、1982年倒産)
代表作 『新諸国物語 笛吹童子』『新諸国物語 紅孔雀』『一心太助』シリーズ、『宮本武蔵』五部作、『反逆児』『武士道残酷物語』『祇園祭』『柳生一族の陰謀』『赤穂城断絶』、テレビ『子連れ狼』『破れ傘刀舟悪人狩り』『春の坂道』
関連活動 歌舞伎役者、映画製作(中村プロダクション)
あだ名 錦ちゃん、錦兄ィ
その他 ブルーリボン賞大衆賞(1958年度)、ブルーリボン賞主演男優賞(1963年度)、アジア映画祭主演男優賞(1958年)、牧野省三賞(1982年)、日本アカデミー賞特別賞(1998年・没後)


概要[編集]

萬屋錦之介(よろずや きんのすけ、1932年11月20日 - 1997年3月10日)とは、歌舞伎の名門・小川家に生まれ、東映時代劇の看板スターとして一時代を築いた俳優である。1972年までの芸名は中村錦之助。『笛吹童子』で少年少女を熱狂させ、内田吐夢監督の『宮本武蔵』五部作で演技派に脱皮し、テレビ『子連れ狼』の拝一刀で茶の間の顔になった。「錦ちゃん」の愛称で親しまれた、昭和時代劇の象徴的存在。

詳細[編集]

歌舞伎の家に生まれた「四男坊」[編集]

本名は小川錦一。歌舞伎役者・三代目中村時蔵の四男として、東京・青山に生まれた。母は赤坂の芸者出身のひな。伯父に名優・初代中村吉右衛門、叔父に十七代目中村勘三郎がいるという、歌舞伎界のど真ん中の家系である。兄には四代目中村時蔵らがおり、弟は後に俳優として活躍する中村嘉葎雄。1936年、満4歳で「中村錦之助」を名乗って歌舞伎座で初舞台を踏んだ。辞典によっては3歳とされるが、いずれにせよ物心つく前から舞台にいた生粋の役者である。少年時代は若手女形として期待され、伯父・吉右衛門の芝居にも出演した。

長幼の序と映画への転身[編集]

とはいえ歌舞伎の世界では兄が優先され、四男坊に大きな役はなかなか回ってこない。転機は1954年ごろ。歌舞伎座の舞台を見た美空ひばりの母・加藤喜美枝が、ひばり映画の相手役として錦之助に目を付けたのである。こうして新芸術プロ製作の『ひよどり草紙』で美少年剣士を演じて映画デビュー。当時の歌舞伎界には映画との両立を良しとしない空気があり、錦之助は歌舞伎を離れて映画の道を選ぶことになった。この決断が、後の東映黄金時代を生むことになる。

「錦ちゃん」ブームと東映黄金期[編集]

東映と契約した錦之助は、同じ1954年の『新諸国物語 笛吹童子』で菊丸役を演じ大ヒット。続く『新諸国物語 紅孔雀』でも人気を不動にし、全国の少年少女が「錦ちゃん」に熱狂する一大ブームが起きた。東千代之介とのコンビは東映の二枚看板とされ、大川橋蔵、大映の市川雷蔵らと並ぶ若手時代劇スター群は「二スケ二ゾウ」とも呼ばれた。二本立て興行で量産体制を敷いていた当時の東映京都において、錦之助はまさに稼ぎ頭の一人だった。

演技派への脱皮と名匠たち[編集]

アイドル的人気にとどまらなかったのが錦之助のすごさである。沢島忠監督の『一心太助』シリーズでは江戸っ子の魚屋・太助を威勢よく演じ、1958年度のブルーリボン賞大衆賞を受賞。伊藤大輔監督の『反逆児』(1961年)では徳川家康の嫡男・松平信康の悲劇を重厚に演じ、時代劇映画として初めて芸術祭賞を受けた。今井正監督の『武士道残酷物語』(1963年)では、封建制に翻弄される一族の七代を一人で演じ分け、ブルーリボン賞主演男優賞を獲得している。同作はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、海外でも評価された。

経歴[編集]

東映退社と中村プロダクション[編集]

1960年代半ば、映画界はテレビの普及で斜陽に入り、東映は時代劇から任侠映画へと路線を切り替えていく。高倉健や鶴田浩二の任侠路線が全盛を迎える中、錦之助は1965年に東映の俳優労働組合の委員長に就任するが、労使の対立を収拾できず、1966年ごろに東映専属を離れてフリーとなった。同年、テレビ時代劇『暗闇の丑松』に初出演。1968年には中村プロダクションを設立し、東宝や大映の映画、テレビ時代劇の製作・出演に乗り出した。京都府・京都市などの協力を得た大作『祇園祭』(1968年公開)では、日本映画復興協会の代表として製作を主導し、三船敏郎らとも共演してヒットさせている。

萬屋錦之介への改名[編集]

1971年、小川家は屋号をそれまでの「播磨屋」から「萬屋」に改めた。萬屋は父・時蔵の母方の家が営んでいた芝居茶屋の名に由来する。これに合わせて1972年、錦之助は芸名を「萬屋錦之介」に改めた。「助」から「介」への字の変更もこのとき行われている。同じ1971年にはNHK大河ドラマ『春の坂道』で柳生宗矩を主演し、テレビでも大物時代劇俳優としての地位を固めた。英語圏では現在も「Kinnosuke Nakamura」「Kinnosuke Yorozuya」の両方の表記で作品が紹介されている。

テレビ時代劇の帝王[編集]

1970年代の錦之介は、映画よりもむしろテレビでその名を轟かせた。1973年から日本テレビ系で放送された『子連れ狼』で拝一刀を演じ、社会現象を巻き起こす。1974年から1977年まではNETテレビ(現・テレビ朝日)系で『破れ傘刀舟悪人狩り』に主演。蘭学医にして剣の達人の叶刀舟が悪党に怒りを爆発させて斬り捨てるスタイルは痛快で、全131話のロングランとなった。同作は三船敏郎の三船プロダクションとNETの制作である。ほかにも『長崎犯科帳』『破れ奉行』『鬼平犯科帳』(長谷川平蔵役)など、看板シリーズを次々と担った。

東映復帰と『柳生一族の陰謀』[編集]

1978年、深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』で、久々に東映作品へ復帰した。演じたのは柳生但馬守宗矩。将軍家光と弟・忠長の跡目争いを陰で操る冷徹な策士で、千葉真一演じる息子・柳生十兵衛とも対立する。仁義なき戦いで実録路線を築いた深作の生々しい演出の中、錦之介だけが朗々とした歌舞伎調の台詞回しを貫き、「この世のものとも思えぬ妖しさ」と評される異様な存在感を放った。家光役は松方弘樹。この演技で第2回日本アカデミー賞の優秀主演男優賞にも名を連ねた。同年には深作監督の『赤穂城断絶』で大石内蔵助も演じている。

倒産、難病、そして復帰[編集]

華やかな活躍の裏で、中村プロダクションの経営は悪化していた。1982年、事務所は十数億円規模の負債を抱えて倒産(報道により約13億円とも約15億円とも)。自宅や別荘も手放すことになった。同年6月には歌舞伎座公演中に倒れ、重症筋無力症と診断される。胸腺腫の摘出手術を受けて長い闘病生活に入ったが、妻の淡路恵子が看病と借金返済を支えたと伝えられる。1984年前後に時代劇スペシャル『子連れ狼』で仕事に復帰し、1985年には舞台『御存じ一心太助』で舞台にも戻った。

晩年[編集]

1989年には8年ぶりの本格時代劇映画『本覚坊遺文 千利休』に出演し、これが最後の映画作品となった。1991年にはテレビ『雲霧仁左衛門』に主演、1994年の大河ドラマ『花の乱』では山名宗全を貫禄たっぷりに演じた。しかし1996年、中咽頭がんが見つかり、出演予定だった大河ドラマ『毛利元就』の尼子経久役を降板(代役は緒形拳)。舌の付け根を大きく切除する手術を受けた。1997年3月10日、肺炎のため千葉県柏市の病院で死去。64歳だった。墓所は鎌倉霊園。没後、日本アカデミー賞特別賞などが贈られている。

作風・演技[編集]

歌舞伎仕込みの台詞と殺陣[編集]

錦之介の最大の武器は、歌舞伎で鍛えた台詞回しである。張りのある声で一気に啖呵を切る芸は、同時代の俳優の中でも別格とされた。俳優の森次晃嗣は文藝春秋に寄せた回想で、錦之介の映画から多くを学んだとし、その啖呵の鮮やかさは他に類を見ないと絶賛している。若い頃のアイドル的な明るさと、後年の重厚さ・凄みの両方を一人で体現できたことも特徴で、『笛吹童子』の美少年と『柳生一族の陰謀』の妖怪じみた策士が同じ人物だと知って驚く若い観客も多い。

「芸の虫」と呼ばれたこだわり[編集]

演技研究には人一倍熱心で、殺陣に説得力を持たせるため、警視庁で居合を教える達人に弟子入りしたという。また、千秋楽を迎えても台本を読み込み、「毎回初めて言う台詞」のつもりで舞台に立つ姿勢を貫いたとされる。テレビ時代劇の現場では「撮影は午後3時まで」が不文律で、夕方以降の場面は代役の後ろ姿や擬似夜景で撮影したという話も残る。森次晃嗣も、錦之介が午後3時ごろに現場を引き上げる一方、朝は早くから入ることを厭わなかったと証言している。

当たり役の系譜[編集]

宮本武蔵、一心太助、拝一刀、柳生但馬守、大石内蔵助、織田信長、徳川家光、坂本龍馬、武田信玄など、錦之介が演じた歴史上の人物は数えきれない。とりわけ柳生宗矩(但馬守)は、大河『春の坂道』、映画『柳生一族の陰謀』『柳生新陰流』、テレビの『柳生武芸帳』シリーズと繰り返し演じた、もう一つのライフワークといえる役である。1本の映画で7役を演じたこともあり、変幻自在ぶりは東映時代劇でも随一だった。

主な出演作[編集]

『宮本武蔵』五部作[編集]

吉川英治の小説を原作に、内田吐夢監督が1961年から1965年まで年1本ペースで撮った大河シリーズ。錦之介はこの武蔵役をライフワークとして全身全霊で取り組んだ。

  • 『宮本武蔵』(1961年):関ヶ原帰りの若者・新免武蔵が村を追われ、沢庵に導かれて姫路城天守に幽閉されるまで。
  • 『宮本武蔵 般若坂の決斗』(1962年)
  • 『宮本武蔵 二刀流開眼』(1963年)
  • 『宮本武蔵 一乗寺の決斗』(1964年):雪の三十三間堂での吉岡伝七郎との対決、一乗寺下り松での七十三人を相手にした死闘が圧巻とされる。
  • 『宮本武蔵 巌流島の決斗』(1965年):完結編。佐々木小次郎を演じたのは高倉健で、お通役は入江若葉。

1971年には内田吐夢の遺作となった『真剣勝負』でも再び武蔵を演じている。2022年ごろには生誕90年を記念し、五部作の原版フィルムを4Kスキャンした上映企画も行われた。

テレビ『子連れ狼』[編集]

原作は小池一夫・小島剛夕の劇画。公儀介錯人の地位を追われ妻を殺された拝一刀が、幼い息子・大五郎を乳母車に乗せて復讐の旅を続ける物語である。日本テレビ系で第1部(1973年)、第2部(1974年)、第3部(1976年)の全3部・計79話が放送された。大五郎役は第1部・第2部が西川和孝、第3部が佐藤たくみ。大五郎が一刀を「ちゃん」と呼ぶ場面が大評判となった。映画版の若山富三郎版が途中で終わったのに対し、錦之介版は原作の最終回まで映像化している点も特徴。欧米各国でも放送され人気を博したとされる。

その他の代表作[編集]

  • 映画:『新諸国物語 笛吹童子』(1954年)、『新諸国物語 紅孔雀』(1954年 - 1955年)、『一心太助 天下の一大事』(1958年)、『反逆児』(1961年)、『武士道残酷物語』(1963年)、『祇園祭』(1968年)、『柳生一族の陰謀』(1978年)、『赤穂城断絶』(1978年)、『本覚坊遺文 千利休』(1989年)
  • テレビ:『春の坂道』(1971年、NHK大河ドラマ)、『子連れ狼』(1973年 - 1976年)、『破れ傘刀舟悪人狩り』(1974年 - 1977年)、『鬼平犯科帳』(1980年代)、『雲霧仁左衛門』(1991年)、『花の乱』(1994年、NHK大河ドラマ)
  • 舞台:『御存じ一心太助』、『春秋千姫絵巻』(1986年、美空ひばりと共演)、『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』など

家族・私生活[編集]

小川家と萬屋一門[編集]

錦之介の生まれた小川家は、三代目中村時蔵を祖とする歌舞伎の一門である。弟の中村嘉葎雄も映画・テレビで活躍し、兄たちの子である甥には歌舞伎役者が多い。現代の観客にとって身近なのは、甥にあたる二代目中村獅童だろう。錦之介は歌舞伎を離れた身ながら、獅童が歌舞伎の道を進むことを励ましたと伝えられる。また「中村錦之助」の名跡は、錦之介の没後10年にあたる2007年、甥の中村信二郎が二代目として襲名し復活した。

三度の結婚[編集]

最初の妻は女優の有馬稲子で、1961年に結婚し1965年に離婚。1966年には女優の淡路恵子と再婚し、淡路は女優業を引退して家庭に入った。淡路の連れ子である長男は俳優の島英津夫で、2人の間には三男・四男が生まれた。四男は「萬屋吉之亮」の芸名で俳優として活動している。三男は1990年にバイク事故で亡くなっている。1986年に宝塚出身の女優・甲にしきとの交際が報じられ、1987年に淡路と離婚、1990年に甲と再々婚した。甲とは錦之介が亡くなるまで連れ添った。淡路の長男・島英津夫は淡路の死去時、母が最後まで錦之介を思い続けていたと語っている。

交友関係[編集]

勝新太郎とは親友として知られ、仲代達矢は三船敏郎・萬屋錦之介・勝新太郎と酒を飲みながら演技論を戦わせたと振り返っている。弟の中村嘉葎雄は湘南・鵠沼に先に移り住んでおり、淡路恵子との再婚後は錦之介も鵠沼に越した。自宅にはサウナがあり、親しい俳優仲間が「サウナだけ借りに」訪れることもあったという。

評価・影響[編集]

2000年にキネマ旬報が発表した「20世紀の映画スター」日本男優部門では9位にランクインした。少年向けの娯楽活劇、名匠との芸術作品、テレビの大衆時代劇、そして舞台と、すべての領域で主役を張った俳優は昭和でも数えるほどしかいない。一方で、テレビ時代劇での撮影時間のこだわりや、中村プロの経営破綻など、大スターならではの「わがまま」や浮き沈みを語るエピソードも多く、その振れ幅の大きさも含めて語り継がれる人物である。

2026年6月には、甥の中村獅童が歌舞伎座「六月大歌舞伎」で新作歌舞伎『子連れ狼』を上演し、叔父の当たり役・拝一刀に挑んだ。大五郎役は獅童の次男・中村夏幹。錦之介自身もドラマ放送中の1974年6月に「萬屋錦之介特別公演」として歌舞伎座で『子連れ狼』を舞台化しており、約52年ぶりに一門の手で同じ劇場に一刀が帰ってきた形となった。

炎上とバズ[編集]

1982年の中村プロダクション倒産は、時代劇の大スターが十数億円規模の借金を抱えたニュースとして大きく報じられた。さらに1986年には甲にしきとの交際がワイドショーや週刊誌をにぎわせ、長年支えてきた淡路恵子との離婚へと至ったことから、世間の注目を集めた。一方で、淡路の長男・島英津夫は2014年の淡路の死去に際し、母は子供より夫のために生きた人で、離婚後も錦之介への愛情を持ち続けていたと語っており、2人の関係を一面的には語れないことがうかがえる。

余談[編集]

  • 『子連れ狼』で一刀が使う胴太貫(同田貫)にほれ込み、同田貫一門の刀を収集。一時は数百本に達したという。
  • 方位学・占いを気にかけ、方角が悪いと自宅に帰らずホテルに泊まることもあったとされる。
  • 息子たちのために仮面ライダーへの出演を東映に打診したが実現せず、代わりに友人の潮健児に地獄大使の衣装で自宅を訪ねてもらったという微笑ましい逸話がある。
  • 1955年に草野球チーム「錦ちゃん」を結成するほどの野球好き。読売ジャイアンツファンだったが阪神タイガースの選手とも交流があった。
  • モロコ釣りに凝り、馬主としてヨロズハピネスなどの競走馬を所有。愛犬家でもあった。
  • 1967年の東京都知事選挙では美濃部亮吉を応援したことがある。
  • 出演映画は140本を超える。映画デビュー作の相手役だった美空ひばりとは、30年以上を経た1986年に舞台で再共演を果たした。

外部リンク[編集]

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