千葉真一
Sonny Chiba(JJ Sonny Chiba)
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2007年、ハワイ国際映画祭での千葉真一(撮影:Christian Razukas/出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY-SA 2.0)
本名 前田禎穂(まえだ さだほ)
誕生日 1939年1月22日
死亡日 2021年8月19日
死亡年齢 82歳(数え年83)
出身地 福岡県福岡市(幼少期から千葉県君津市で育つ)
国籍 日本
学歴 千葉県立木更津第一高等学校、日本体育大学(2013年に正式卒業)
ジャンル 映画、テレビドラマ、アクション、時代劇
ポジション 俳優、アクション監督、映画監督、プロデューサー
活動期間 1960年 - 2021年
家族 真瀬樹里(長女・女優)、新田真剣佑(長男・俳優)、眞栄田郷敦(次男・俳優)。元妻は野際陽子
身長 / 体重 176cm cm / ― kg
代表作 『キイハンター』『激突!殺人拳』『柳生一族の陰謀』『影の軍団』『戦国自衛隊』『魔界転生』『キル・ビル Vol.1』
関連活動 ジャパンアクションクラブ(JAC)創設者
あだ名 千葉ちゃん、チバシン、サニー・チバ
その他 極真空手四段ほか複数の武道で段位を保持


概要[編集]

千葉真一(ちば しんいち、1939年 - 2021年)とは、日本の俳優・アクション監督であり、アクション俳優養成所「ジャパンアクションクラブ(JAC)」の創設者である。海外では「Sonny Chiba(サニー・チバ)」の名で知られ、スタントマンに頼らず自分の体で危険なアクションをこなす「アクション俳優」という生き方を日本に根づかせ、ハリウッドにまで影響を与えた人物だ。

詳細[編集]

体操少年から東映ニューフェイスへ[編集]

千葉真一は1939年1月22日、福岡県福岡市に生まれ、4歳ごろに千葉県君津市へ移った。本名は前田禎穂。中学時代から器械体操に打ち込み、千葉県立木更津第一高校時代には全国大会に出場、3年生で優勝を果たすほどの実力者だった。

1957年には日本体育大学に進学して体操を続けたが、2年生のときの故障で競技人生を断念し、1959年ごろに大学を離れる。ここで人生の舵を大きく切ったのが、東映の第6期ニューフェイスへの応募だった。約2万6千人もの応募者の中からトップで合格したというから、当時から身体能力と華は別格だったのだろう。ちなみに大学は後年の2013年3月に正式に卒業し、学士(体育学)を取得している。70代で卒業を果たすあたりも、いかにも千葉らしい律儀さである。

デビューと深作欣二との出会い[編集]

デビューは1960年、東映のテレビ映画『新 七色仮面』の主演・蘭光太郎役。いきなりヒーローとしての出発だった。翌1961年には『警視庁物語 不在証明 十五才の女』でスクリーンデビューし、同年の『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で初主演映画を迎える。この作品の監督が、のちに『仁義なき戦い』を撮る深作欣二で、しかも深作にとっては監督デビュー作だった。

新人監督と新人主演俳優として出会った二人は、以後20本以上の作品でコンビを組む盟友となる。深作が晩年にクエンティン・タランティーノと日米合作を構想した際にも、そこには千葉の存在があった。千葉自身、生前に「深作監督、タランティーノ監督と、日米で互いのパートを撮る構想があったが、深作監督の死去で実現しなかった」という趣旨を語っている。

『キイハンター』で国民的スターに[編集]

千葉の名前を全国区にしたのが、1968年から1973年までTBS系で放送されたテレビドラマ『キイハンター』だ。国際警察特別室の秘密捜査チームを描いたスパイアクションで、千葉は毎週のように走り、跳び、殴り、時には車から飛行機へ飛び移るような無茶をした。深作欣二が監督した1966年の千葉主演作『カミカゼ野郎 真昼の決斗』が、この番組の土台になったとされる。

本人が生涯で最も危険だったと語るのも、この『キイハンター』の撮影だ。離陸しようとする軽飛行機に車の運転席から乗り移るシーンで、左足がハンドルに引っかかって抜けなくなり、本気で死を覚悟したという。また、テレビ企画で来日したアメリカのスタントマンに対抗して、新宿の京王プラザホテルの屋上からロープ1本で降りたこともあった。晩年、この話をしながら「今トム・クルーズがいろいろやってるけど、何十年も前に俺はやってた」と笑ったと報じられている。この自負こそが、千葉真一という人間の核だった。

経歴[編集]

1970年代:殺人拳と仁義なき戦い[編集]

1970年代の千葉は、空手アクションとヤクザ映画の両輪で突っ走った。1973年には『仁義なき戦い 広島死闘篇』に出演し、狂犬のような愚連隊の頭目・大友勝利を怪演。菅原文太、北大路欣也、梶芽衣子らと並ぶシリーズ屈指の名キャラクターとして今も語り草になっている。実は第4作でも大友役で再登板する予定だったが、主演作の撮影と重なったため宍戸錠に交代したという経緯がある。同じ年には『ボディガード牙』シリーズにも主演した。

1974年の『激突!殺人拳』は、千葉のキャリアを世界へ押し広げた作品だ。極真空手の技を前面に押し出した容赦のない格闘描写で、日本でも話題になったが、本当の衝撃はアメリカで起きた。この作品は『The Street Fighter』の題で公開され、暴力描写があまりに激しいとして、暴力を理由に「X指定」を受けた最初期の映画となったとされる。その一方で、日本映画として初めて米国で興行収入100万ドルを超えたとも伝えられ、続編も作られた。

1978年〜1981年:時代劇と角川映画の黄金期[編集]

1978年、深作欣二にとって初の本格時代劇となった『柳生一族の陰謀』で、千葉は柳生十兵衛を演じた。萬屋錦之介演じる父・柳生但馬守が将軍家の跡目争いを裏で操る中、十兵衛は出世に興味を持たず、根来衆の面倒を見る男として描かれる。クライマックスで父と決裂する十兵衛像は強烈で、この役で第2回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。以後「十兵衛といえば千葉真一」というイメージが定着した。

1979年には角川映画の『戦国自衛隊』に主演。演習中に戦国時代へタイムスリップした自衛隊の部隊を率いる伊庭三尉を演じた。この作品で千葉は日本映画で初めて「アクション監督」としてクレジットされたとされ、翌年のブルーリボン賞ではスタッフ賞を受けている。俳優が主演しながらアクション全体の設計まで担うという働き方は、当時としてはきわめて画期的だった。同作は配給収入13億5000万円を記録し、同じ年に公開された松田優作主演の『蘇える金狼』とともに、角川映画の勢いを象徴する一本になった。

1981年の『魔界転生』でも、深作欣二監督のもと再び柳生十兵衛を演じ、魔界から蘇った剣豪たちと対決した。さらに1983年には同じく深作監督・角川映画の『里見八犬伝』にも出演し、薬師丸ひろ子と真田広之の主演作をベテランとして支えている。

1980年代:『影の軍団』と服部半蔵[編集]

テレビでは1980年から『影の軍団』シリーズが始まった。千葉はシリーズを通じて服部半蔵をはじめとする忍びの頭目を演じ分け、作品ごとに名前や設定の異なる「半蔵」を演じ続けた。このシリーズこそが、のちに海を越えて一人の映画オタクの心をつかむことになる。それがクエンティン・タランティーノである。2003年には後継作『新・影の軍団』でも初代・服部半蔵を演じている。

1990年代以降:ハリウッドへ[編集]

1990年には『リメインズ 美しき勇者たち』で初めて監督を務め、プロデュースも手がけた。1991年には自ら育てたJACを手放し、1992年の『エイセス 大空の誓い』への出演を機に拠点をロサンゼルスへ移す。グリーンカードも取得し、50代にして本格的に海外で勝負する道を選んだ。1998年には香港映画『風雲 ストームライダーズ』にも出演している。

2003年、タランティーノ監督の『キル・ビル Vol.1』で伝説の刀鍛冶・服部半蔵を演じ、欧米で一気に再評価が進む。2006年には『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』にヤクザの組長役で出演し、2007年にはNHK大河ドラマ『風林火山』で板垣信方役を演じた。同じ2007年からは海外名「JJ Sonny Chiba」を日本でも使うようになり、2011年以降は日本で千葉真一、海外でJJ Sonny Chibaと使い分けている。

晩年と2021年の死去[編集]

晩年も千葉は映画を撮る夢を捨てなかった。2021年に報じられたインタビューでは、新渡戸稲造の『武士道』を下敷きに、戊辰戦争後に会津藩の人々がカリフォルニアへ入植したという史実を題材にした作品を、ハリウッドと組んで作りたいと語っていた。週に2〜3回は鍛錬を続けていたという。

しかし2021年8月、新型コロナウイルスに感染して肺炎が悪化し、8日から千葉県木更津市の病院に入院。18日に危篤状態となり、8月19日午後5時26分に亡くなった。82歳だった。所属事務所はワクチンを接種していなかったことを明らかにしている。7月に食事をともにした旧友は「すごく元気だった」と驚きを語っていた。葬儀は近親者で営まれた。

訃報はアメリカでも大きく報じられ、ニューヨーク・タイムズやロサンゼルス・タイムズが追悼記事を掲載。米アカデミー賞の公式アカウントやNetflix、ゲームクリエイターの小島秀夫らも追悼の言葉を寄せた。

ジャパンアクションクラブ(JAC)と後進の育成[編集]

千葉真一の最大の功績として、出演作と並んで必ず挙げられるのがJACの創設だ。1969年に養成所としての活動を始め、1970年4月に東京都中野区で「ジャパン・アクション・クラブ」として正式に発足。1973年には六本木で法人化された。掲げた目的は「世界で通用するアクションスター・スタントマンを育成・輩出する」こと。当時の日本映画界では、危険なアクションは専門の殺陣師やスタントマンが担うのが普通で、主演俳優が自らアクションを鍛え上げるという発想は珍しかった。

JACからは真田広之、志穂美悦子、大葉健二、黒崎輝、渡洋史ら、千葉の主演作で鍛えられた俳優が次々と巣立った。とくに真田広之は少年時代から千葉に師事した「愛弟子」で、のちにハリウッドで実績を積み、2024年には主演・プロデュースを務めたドラマ『SHOGUN 将軍』がエミー賞を席巻した。千葉が夢見た「日本の侍アクションが世界で認められる」光景を、弟子が実現した形だ。真田は千葉の訃報に際し、その志を受け継いで走り続けることが恩返しだという趣旨のコメントを出している。

JACはスタントマン、スーツアクター、アクション監督も多数送り出し、スーパー戦隊シリーズなどの特撮作品のアクションを支える人材の供給源にもなった。1980年代には千葉の念願だったミュージカルの上演にも乗り出している。1991年に千葉はJACを売却し、組織は変遷を経て現在のジャパンアクションエンタープライズ(JAE)へとつながっている。

ちなみに、Vシネマの帝王として知られる小沢仁志は、高校生のときにJACの門を叩いたものの、当時は高校生の受け入れ枠がなく「卒業したらおいで」と断られたというエピソードを持つ。それだけ当時のJACは、アクションを志す若者にとっての憧れの場所だったわけだ。

作風・アクションへのこだわり[編集]

千葉のアクションの特徴は、なんといっても「本物」であることだ。極真空手四段をはじめ、忍術系の流派で四段、剛柔流空手二段、少林寺拳法二段、柔道二段、剣道初段と、複数の武道で段位を持っていた。1977年にはハワイで行われた極真会館の対抗戦に出場し、二段蹴りでKO勝ちしたという武勇伝まである。

CNNは、同時代のブルース・リーと比較しつつ、千葉の格闘は敵への攻撃が容赦なく、一撃一撃に重さがあり、舞踊的な要素を削ぎ落としていると分析した。華麗に舞うのではなく、殴られた相手が本当に痛そうに見える。これが『激突!殺人拳』が海外の観客に与えた衝撃の正体だった。ニューヨーク・タイムズは千葉の言葉として、武術はドラマの一部でありパフォーマンスであり、一つの感情表現なのだ、という趣旨を紹介している。

一方で、千葉は単なる格闘家俳優ではなかった。『柳生一族の陰謀』の十兵衛や『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友勝利のように、芝居で強烈な印象を残す役も多い。アクションを「感情を見せる手段」として捉えていたからこそ、ヤクザ映画でも時代劇でもSFでも、体の動きそのものがキャラクターの説明になっていたのである。

海外での「Sonny Chiba」人気[編集]

「サニー」の名付け親[編集]

英語名の「Sonny」は、『激突!殺人拳』を全米配給したニュー・ライン・シネマのロバート・シェイが付けたものとされる。当時のアメリカでは千葉作品はグラインドハウス(B級映画館)で上映されるカルト映画の扱いで、メインストリームのスターというより、熱狂的なファンに支えられる存在だった。

タランティーノの偏愛[編集]

千葉の最も有名な信奉者がクエンティン・タランティーノだ。脚本を書いた『トゥルー・ロマンス』(1993年)では、主人公が映画館で千葉主演作の3本立てを観る場面や、部屋に千葉作品のポスターを貼る描写で敬意を示した。また『パルプ・フィクション』で有名な聖書の暗唱(エゼキエル書25章17節)は、千葉主演作『ボディガード牙』の冒頭に着想を得たものと言われている。

そして『キル・ビル Vol.1』では、千葉のためだけに「服部半蔵」というキャラクターを用意した。これは『影の軍団』で千葉が演じた忍びの頭目と同じ名前で、タランティーノはこの役を、シリーズごとに姿を変えてきた半蔵の「100番目のバージョン」だと位置づけたという。劇中の半蔵は沖縄で寿司屋を営む伝説の刀匠で、主人公ザ・ブライドに日本刀を打つ。アクションの見せ場こそないが、物語の要となる役どころだ。撮影の裏では剣術の指導も担い、女優陣に日本刀の扱いを教えた。ちなみにこの作品には國村隼もヤクザの親分役で出演しており、アニメパートはプロダクション・アイジーが手がけている。

ハリウッドからの敬意[編集]

キアヌ・リーブスは千葉を「アイドル」と公言しており、2015年に来日した際は、実際に戦える俳優である点を高く評価した。日本のトーク番組でのサプライズ対面では、キアヌがあからさまに緊張して喜んでいる様子が話題になり、千葉の訃報の際にもその映像が世界中で拡散された。サミュエル・L・ジャクソンやジョナサン・ノーランらも千葉への敬意を表明してきたほか、2018年にはウータン・クランのRZAが千葉に捧げた楽曲を発表している。

代表作[編集]

  • 『新 七色仮面』(1960年):デビュー作。主人公・蘭光太郎役。
  • 『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年):深作欣二の監督デビュー作で、千葉の映画初主演作。
  • 『キイハンター』(1968年 - 1973年、TBS):千葉を国民的スターにしたアクションドラマ。
  • 『日本暗殺秘録』(1969年):京都市民映画祭主演男優賞を受賞。
  • 『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年):愚連隊の頭目・大友勝利役。
  • 『激突!殺人拳』(1974年):英題『The Street Fighter』。海外人気の原点。
  • 『柳生一族の陰謀』(1978年):柳生十兵衛役。日本アカデミー賞優秀助演男優賞。
  • 『戦国自衛隊』(1979年):主演とアクション監督を兼任。
  • 『影の軍団』シリーズ(1980年 - ):服部半蔵ほか忍びの頭目役。
  • 『魔界転生』(1981年):再び柳生十兵衛役。
  • 『里見八犬伝』(1983年):角川映画の大ヒット作。
  • 『キル・ビル Vol.1』(2003年):刀匠・服部半蔵役。
  • 『風林火山』(2007年、NHK):板垣信方役。

私生活・家族[編集]

千葉は『キイハンター』で共演した女優の野際陽子と1973年に結婚し、1975年に長女が誕生した。この長女が女優の真瀬樹里である。二人は1994年に離婚している。野際陽子は2017年に亡くなった。

長男は俳優の新田真剣佑、次男は俳優の眞栄田郷敦である。新田真剣佑は『東京リベンジャーズ』のドラケン役などで人気を集め、眞栄田郷敦は大河ドラマ『どうする家康』で武田勝頼を演じた。千葉は息子たちの活躍を喜んで公の場でもよく話題にしていたが、二世タレントが多い芸能界で「ニセモノになるな」と伝え、半端なことは許さない姿勢を見せていたという。一方で「息子は息子、自分は自分」とライバル意識は否定し、芝居についてはよく話し合ってアドバイスを送っていたと明かしている。

2019年11月の芸能活動60周年祝賀会には、真瀬樹里と二人の息子がそろって出席した。父の背中を追う子どもたちが、それぞれ俳優として第一線に立っているのは、千葉にとって何よりの誇りだったに違いない。

評価・影響[編集]

千葉の功績は大きく三つに整理できる。第一に、主演俳優が自ら危険なアクションを担うスタイルを日本で確立したこと。第二に、JACを通じて真田広之をはじめとするアクション俳優やスタッフを大量に育てたこと。第三に、『激突!殺人拳』と『キル・ビル』を通じて、日本のアクションと時代劇の魅力を海外に届けたことだ。

高倉健を「永遠の師匠」と公言していたことでも知られ、東映の先輩俳優との縁も深い。渡瀬恒彦らが中心となった「東映ピラニア軍団」の結成式では特別後援者を務めるなど、脇役陣を支える兄貴分としての顔も持っていた。

受賞歴としては、1969年と1976年の京都市民映画祭主演男優賞、1979年の日本アカデミー賞優秀助演男優賞、1980年のブルーリボン賞スタッフ賞のほか、2005年にハワイ国際映画祭のMAVERICK AWARD、2011年にSINGAFESTの生涯功労賞、2020年には文化庁長官表彰を受けている。

最新動向[編集]

没後も千葉の作品は掘り起こされ続けている。2021年秋にはCS放送で、初主演作から代表作までをそろえた追悼特集が組まれた。遺作の一つとされる海外作品『Bond of Justice: Kizuna』は没後の2024年に公開された。

さらに2027年1月22日からは、タランティーノが『キル・ビル Vol.1』『Vol.2』を本来の構想どおり1本の映画として再編集した『キル・ビル ザ・ホール・ブラッディー・アフェア』が、日本で2週間限定公開される予定だ。上映時間はインターミッション込みで275分。服部半蔵を演じる千葉の姿も、再び大スクリーンに蘇ることになる。ちなみに公開日の1月22日は、千葉の誕生日と同じ日付である。

余談[編集]

  • デビュー当時の東映ニューフェイス試験では、約2万6千人の応募者の中からトップ合格だった。
  • 大学を故障で離れてから半世紀以上たった2013年、日本体育大学を正式に卒業し、学士(体育学)を取得した。
  • 『パルプ・フィクション』の有名な聖書の暗唱シーンは、千葉主演の『ボディガード牙』の冒頭がヒントになったと言われている。
  • 『キル・ビル』の服部半蔵は、『影の軍団』で千葉が演じた半蔵の「100番目のバージョン」というタランティーノの遊び心から生まれた役である。
  • 2007年には厚生労働省の健康大使に任命され、2008年から2009年にかけては京都造形芸術大学の教授も務めた。2019年には千葉市の健康大使にも任命されている。
  • 2016年の熊本地震の際には、オスマン・サンコンとともに被災地で炊き出しを行った。
  • 歌手のいしだあゆみは、千葉真一の熱狂的なファンだったとされる。
  • 1975年には、フランシス・フォード・コッポラから出演のオファーがあったが、東映側が断ったため実現しなかったという話が残っている。

外部リンク[編集]

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