| 丹波哲郎 たんば てつろう / Tetsuro Tamba | |
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![]() 丹波哲郎(出典:ウィキメディア・コモンズ「Tanba Tetsuro.jpg」) | |
![]() 東映『日本侠客伝』シリーズ出演時の丹波哲郎(出典:ウィキメディア・コモンズ) | |
| 本名 | 丹波正三郎(たんば しょうざぶろう) |
| 誕生日 | 1922年7月17日 |
| 死亡日 | 2006年9月24日 |
| 死亡年齢 | 84歳(数え年85) |
| 出身地 | 東京府豊多摩郡大久保町(現・東京都新宿区) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 成城中学校、中央大学法学部英法科卒業 |
| 宗教 | 無宗教(葬儀は無宗教形式・戒名なし) |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台、著述(霊界研究) |
| 活動期間 | 1952年 - 2006年 |
| デビューアルバム | 1952年 映画『殺人容疑者』(新東宝) |
| 家族 | 妻:貞子(1949年結婚、1997年死去)、長男:丹波義隆(俳優) |
| 身長 / 体重 | 175cm cm / ― kg |
| 事務所 | 丹波プロダクション(1973年設立) |
| 代表作 | 『切腹』『三匹の侍』『007は二度死ぬ』『キイハンター』『人間革命』『日本沈没』『砂の器』『Gメン'75』『八甲田山』『二百三高地』『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』『十五才 学校IV』 |
| 関連活動 | 心霊研究家・著述家・講演活動、俳優養成所「丹波道場」主宰、映画『大霊界』シリーズ総監督 |
| あだ名 | ボス、大霊界の人、霊界の宣伝マン(自称) |
| その他 | 毎日映画コンクール男優演技賞(『人間革命』)、ブルーリボン賞助演男優賞・日本アカデミー賞助演男優賞(『二百三高地』)、日刊スポーツ映画大賞助演男優賞(『十五才 学校IV』)、ゴールデン・アロー賞芸能功労賞(没後) |
概要[編集]
丹波哲郎(たんば てつろう、本名:丹波正三郎、1922年7月17日 - 2006年9月24日)とは、日本の俳優・心霊研究家である。『007は二度死ぬ』のタイガー田中、『Gメン'75』の黒木警視正、映画『砂の器』の今西刑事などで知られ、晩年は自ら「霊界の宣伝マン」を名乗って映画『大霊界』を大ヒットさせた、昭和を代表する怪優にして大物スターである。
詳細[編集]
名門の「落ちこぼれ」三男坊[編集]
丹波哲郎は1922年(大正11年)7月17日、東京府豊多摩郡大久保町(現在の東京都新宿区)に丹波家の三男として生まれた。祖父は薬学者の丹波敬三、父は陸軍薬務官で日本画家としても活動した丹波緑川という家柄で、家系は平安時代の医書『医心方』で知られる丹波康頼にさかのぼるとされる。一族には東京帝大出身者が多く、親戚には大審院院長を務めた林頼三郎もいた。ところが本人は陸軍幼年学校に落ち、旧制二高にも二度落ちるという「一家の落ちこぼれ」コース。最終的には林頼三郎が総長を務めていた中央大学法学部英法科に入学している。
学徒出陣とGHQ通訳[編集]
大学在学中の1943年12月、第1回学徒出陣で陸軍に入隊。態度が大きいという理由で上官から体罰を受けることも多く、立川の陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受けた。このときの上官の一人が、のちに読売ジャイアンツの監督として「V9」を成し遂げる川上哲治だったというのは有名な話。航空隊所属で特攻要員になる可能性もあったが、出撃することなく立川で終戦を迎えた。戦後は大学に復学し、英語力を買われてGHQの通訳のアルバイトに就いたが、本人いわく英語は半分ぐらいしか分からず、困るとトイレに逃げ込んで時間をつぶしていたという。マッカーサーとエレベーターで二度ほど乗り合わせた、という自慢話も残している。
新東宝で俳優デビュー[編集]
1948年に大学を卒業すると、油糧砂糖配給公社に勤めながら俳優を志し、1950年に創芸小劇場を主宰、劇団文化座にも参加した。1951年に新東宝へ入社。「丹波哲郎」という芸名は会社側が決めたものだと本人は語っている。しかし入社後も態度の大きさが災いして1年以上役がつかなかった。転機は1952年の『殺人容疑者』。本来は先輩の山形勲に来た役で、山形の代理で断りに行ったところ、プロデューサーに「じゃあ君がやれ」と指名されたという、いかにも丹波らしい逸話でデビューを飾った。ちなみにこのときのギャラは2万円だったとされる。
「ボス」と「霊界」の二つの顔[編集]
新東宝では陰のある二枚目として敵役・悪役を多く演じ、1959年には同社の作品レベルを批判した発言がもとで社長の大蔵貢と対立、謝罪を拒んで退社しフリーとなった。以後は会社の枠にとらわれず、東映・松竹・東宝・日活の作品から海外映画まで縦横無尽に出演し、出演本数は外国映画約10本を含めて300本以上にのぼる。テレビでは『キイハンター』『Gメン'75』で部下を率いる「ボス」役が定着した。一方、中年期以降は死後の世界の研究にのめり込み、「霊界の宣伝マン」を自称して講演・著作・映画で持論を広めた。この硬派なスター像と、どこか浮世離れした霊界おじさん像のギャップこそが、丹波哲郎という人物の最大の魅力といえる。
経歴[編集]
1950年代:新東宝の悪役時代[編集]
デビュー後の丹波は、『戦艦大和』(1953年)、『人間魚雷回天』(1955年)などの戦争映画や、新東宝の娯楽作で存在感を発揮した。端正な顔立ちに低く響く声、そして物怖じしない態度で、主役を食うタイプの敵役として重宝された。1956年の『金語楼の兵隊さん』をきっかけに、柳家金語楼の劇団の舞台にも客演している。1958年から1959年にかけては日本テレビのドラマ『丹下左膳』に主演し、テレビでも顔が売れ始めた。1959年6月の新東宝退社は、スター候補の若手が社長に楯突いて辞めるという異例の出来事だったが、結果的にこれが丹波の「どこにも属さない大物」というキャラクターを決定づけた。
1960年代:フリーの大物、そして世界へ[編集]
フリーになった丹波は、テレビ演出家だった五社英雄とコンビを組み、フジテレビのドラマ『トップ屋』(1960年)や、ニュー東映の『霧と影』『白昼の無頼漢』(1961年)に主演。続いて今村昌平監督の『豚と軍艦』(1961年)、小林正樹監督の『切腹』(1962年)、五社英雄監督の『三匹の侍』(1964年)、篠田正浩監督の『暗殺』(1964年)など、日本映画史に残る作品へ次々と出演した。『切腹』では仲代達矢演じる津雲半四郎と対決する剣客・沢潟彦九郎を演じ、三國連太郎とともに強烈な印象を残している。また小林正樹監督の『怪談』(1964年)にも出演した。海外作品では日米合作の『太陽にかける橋』(1961年)でハリウッドに紹介され、イギリス映画『第七の暁』(1964年)を経て、1967年の『007は二度死ぬ』でついに世界的な知名度を得た。
1968年 - 1982年:TBS土曜9時の顔[編集]
1968年に始まったTBS系『キイハンター』では、国際警察特別室のボス・黒木鉄也を演じ、視聴率30%超えの大ヒットに。千葉真一、野際陽子らとともに、当初1年の予定が5年に延長された。その後も『アイフル大作戦』(1973年)、『バーディー大作戦』(1974年)と東映制作のアクションドラマで主演を続け、1975年からの『Gメン'75』では7年間にわたり「ボス」黒木哲也を演じた。この時期の丹波は、まさにTBS土曜21時枠の看板俳優だった。
1970年代 - 1980年代:大作映画の「留めのスター」[編集]
同時期、映画では大作の重要な役どころを次々と担当。創価学会第2代会長・戸田城聖を演じた『人間革命』(1973年)で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞し、同年の『日本沈没』では日本の首相・山本総理を演じた。1974年の『砂の器』では今西栄太郎刑事、1977年の『八甲田山』、1978年の『柳生一族の陰謀』『野性の証明』、1980年の『二百三高地』では児玉源太郎を演じ、ブルーリボン賞と日本アカデミー賞の助演男優賞を受賞した。キャストクレジットの最後に名前が出る大物、いわゆる「留めのスター」として、大作映画に欠かせない存在となった。時代劇では『真田太平記』(NHK、1985年)の真田昌幸役が高く評価されている。
1989年 - 2006年:大霊界と晩年[編集]
1989年、自身のベストセラーを原作とする映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』を総監督として制作し、配給収入9億円のヒットを記録。続編も作られ、「大霊界」は丹波の代名詞になった。1990年のスペシャルドラマ『白い巨塔』(テレビ朝日)では鵜飼医学部長を演じるなど俳優業も続け、山田洋次監督の『十五才 学校IV』(2000年)では日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞。NHK大河ドラマ『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)にも顔を見せた。2005年2月からインフルエンザと虫垂炎で約2か月入院した後は目に見えて痩せ、2006年9月24日、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。84歳だった。遺作はリメイク版『日本沈没』(2006年)とされる。
代表作と演じた役[編集]
007は二度死ぬ(1967年)[編集]
ショーン・コネリー主演の『007』シリーズ第5作。丹波が演じたのは、日本の公安組織を率いる「タイガー田中」で、ボンドを助けて忍者部隊を指揮する重要な役どころだった。監督は『第七の暁』でも組んだルイス・ギルバート。出演料は20万ドル、1ドル360円の時代で約7,200万円という破格の金額で、デビュー作の2万円と比べると実に3,600倍にもなる。英語版では丹波の声はロバート・リエッティによって吹き替えられているが、現場では日本人キャストとイギリス人スタッフの橋渡し役を務めたとされる。本人は「俺の英語は完璧だ」と豪語していたが、実際にはゆっくりした英語だったという証言もある。
コネリーとの縁も濃い。ロサンゼルスのホテルで丹波がシャワーを浴びていると大柄な白人男性が部屋に電話を借りに来た、それがコネリーだったという出会いに始まり、撮影中は剣道や空手を教え、おみくじの内容を英訳してやったという。コネリーは日本語の「キニシナーイ」を口癖にしていたそうで、丹波の新居にお忍びで遊びに来たこともあったと伝えられる。共演した松岡きっこは、丹波がコネリーの背中をバンバン叩いて高笑いする姿に「どっちが主役かわからない」と感じたと語っている。
Gメン'75(1975年 - 1982年)[編集]
TBS系で1975年5月24日から1982年4月3日まで、毎週土曜21時に放送された東映制作の刑事ドラマ。全355話。丹波は警視庁から独立した特別捜査機関「Gメン」の本部長・黒木哲也を演じた。ノンキャリアのたたき上げで、戦時中は零戦パイロットだったという設定。普段は温厚だが、地下の取調室では容赦ない取り調べを行うという二面性のあるキャラクターである。
番組はメンバーが滑走路を横一列に歩くオープニング(通称「75番滑走路」)と、芥川隆行の重厚なナレーションで一世を風靡した。共演は若林豪、倉田保昭、原田大二郎、藤田美保子、夏木陽介、夏木マリ、宮内洋など。倉田保昭を中心とした「香港カラテシリーズ」は特に人気が高く、最高視聴率は1978年1月28日放送の第140話で記録した32.2%(関東地区)。社会派ハードボイルド路線で、勧善懲悪で終わらない重い結末も多かった。構成には深作欣二らも名を連ねている。
砂の器(1974年)[編集]
松本清張の長編推理小説を、橋本忍と山田洋次の脚本、野村芳太郎監督で映画化した松竹作品。丹波は、蒲田操車場で見つかった他殺体の謎を追う警視庁の今西栄太郎刑事を演じ、若手刑事役の森田健作とともに全国を歩いて真相に迫る。犯人の天才作曲家・和賀英良を加藤剛、殺される元巡査・三木謙一を緒形拳、和賀の父・本浦千代吉を加藤嘉が演じた。
クライマックスでは、捜査会議で今西が事件の背景を語る場面と、和賀の組曲「宿命」の演奏、そして父子の放浪の回想が交錯する。丹波はこの場面で千代吉の手紙を読みながら涙が止まらなくなり、何度も撮り直しになったという。後年、自分のセリフに感動して声が詰まったと明かしている。作品は毎日映画コンクール大賞をはじめ多くの賞を受け、1974年の邦画配給収入第3位を記録した。のちのテレビ版では今西役を仲代達矢(1977年)、渡辺謙(2004年)、小林薫(2011年)、東山紀之(2019年)が演じている。
キイハンター(1968年 - 1973年)[編集]
TBS系で放送された東映制作のアクションドラマ。国際的な犯罪に立ち向かう秘密組織「キイハンター」のボス・黒木鉄也役。千葉真一のスタントアクションと、丹波の余裕たっぷりのボスっぷりがウケて、視聴率30%を超える人気番組に成長した。千葉は後年、撮影の合間の雑談でも丹波はよく霊界の話をしていたと振り返っている。
その他の主な出演作[編集]
- 『殺人容疑者』(1952年、新東宝)- デビュー作
- 『豚と軍艦』(1961年、日活)
- 『切腹』(1962年、松竹)- 沢潟彦九郎
- 『丹下左膳』(1963年、松竹)- 丹下左膳
- 『三匹の侍』(1964年、松竹)- 柴左近
- 『暗殺』(1964年、松竹)- 清河八郎
- 『日本侠客伝』シリーズ(東映)- 高倉健主演の任侠映画にも出演
- 『網走番外地』(1965年、東映)- 保護司・妻木
- 『人間革命』(1973年、東宝)- 戸田城聖
- 『日本沈没』(1973年、東宝)- 山本総理
- 『ノストラダムスの大予言』(1974年、東宝)
- 『八甲田山』(1977年、東宝)
- 『柳生一族の陰謀』(1978年、東映)- 萬屋錦之介主演
- 『事件』(1978年、松竹)- 松坂慶子、大竹しのぶらと共演
- 『二百三高地』(1980年、東映)- 児玉源太郎
- 『十五才 学校IV』(2000年、松竹)
- 『たそがれ清兵衛』(2002年、松竹)
- テレビ『鬼平犯科帳』(1975年)- 長谷川平蔵
- テレビ『座頭市』シリーズ(勝新太郎主演)- ゲスト出演
人物・作風[編集]
台本を覚えない伝説[編集]
丹波哲郎を語るうえで外せないのが「台本を読まない・覚えない」伝説。撮影所に台本を持ってこず、セリフを大きな字で書いた紙を相手役の胸に貼ったり、湯飲みの中にカンペを仕込んだりして本番に臨んだという。それでも本番ではスラスラと話したとされ、本人は「一種の自己催眠」と説明していた。「俺は仕事を家に持ち込まない主義だ」と言い放ったという話もある。『Gメン'75』では共演者の役名が覚えられず、大きなミカンに名前を書いておいたところ、誰かに食べられてしまったという笑い話まである。
一方で、本気になった時の集中力は別格だった。『真田太平記』で息子役を演じた草刈正雄によると、真田昌幸役に入れ込んだ丹波は長台詞まで完璧に覚えてきたといい、共演した渡瀬恒彦と草刈に刀をプレゼントしたという。
遅刻と大物ぶり[編集]
「スターは遅れて来るもんだ」と堂々と遅刻することでも知られた。『柳生一族の陰謀』では萬屋錦之介との撮影に1時間遅れ、「おう、錦ちゃん、遅れた、ワリい」とあっけらかんと現れたという。松竹の大御所・城戸四郎を「シロウちゃん」、鶴田浩二を「おーい、鶴田」と呼ぶなど、相手が誰であろうと物怖じしない態度は伝説の域。一方で、本人は自分から役を売り込むことはせず、キャスティングされた役は自分に合っているのだと考え、ひたすら監督を喜ばせることを意識していたと語っている。
後輩への影響[編集]
『釣りバカ日誌』で共演した西田敏行は、少年時代に『切腹』の丹波と三國連太郎の演技に衝撃を受けた一人。丹波から「セリフは食べ物と考えて、消化してしまえばいい」という趣旨の助言を受け、それを西島秀俊ら後輩に伝えているという。また1973年に丹波プロダクションを設立し、俳優養成所「丹波道場」を開いて後進の育成にも力を入れた。『仮面ライダーV3』の風見志郎役などで知られる宮内洋は丹波の「一番弟子」として有名で、『Gメン'75』にも出演している。
霊界研究と大霊界[編集]
霊界研究を始めたきっかけ[編集]
丹波は中年期以降、死後の世界の研究に没頭した。本人の説明によれば、きっかけはガンを患って死を恐れていた俳優仲間の不安を和らげたいと思ったことだという。またロンドンのホテルで中国人女性の霊に遭遇した体験が、霊界の存在を確信する決め手になったとも語っている。丹波は「あの世が本当の世で、この世は仮の世にすぎない」「霊界はすばらしいところ」と主張し、自ら「霊界の宣伝マン」を名乗った。これらはあくまで丹波本人の信念・主張であり、霊界の存在が科学的に確認されているわけではない。
講演・著作と来世研究会[編集]
霊界に関する著書は多数にのぼり、『丹波哲郎の大霊界』シリーズはベストセラーとなった。年間20回以上の講演もこなし、1986年1月には東島邦子を会長とする教育団体「来世研究会」を設立した。丹波は霊能力の存在を認める一方で、特定の宗教との結びつきは否定していた。催眠術にも詳しかったとされるが、『Gメン'75』で共演した夏木陽介は、丹波の催眠にかかった人を見たことがないと冗談交じりに語っている。
映画『大霊界』三部作[編集]
1989年公開の『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』は、丹波が原作・脚本・総監督を務め、自身も吉野博士役で特別出演した作品。監督は石田照。学会へ向かう途中で事故死した物理学者・曽我隆(演:丹波義隆)が、霊人キヨ(岡安由美子)に導かれて霊界を旅し、転生の機会を探すというストーリーで、若山富三郎が「大霊人」として出演している。若山は心臓に持病を抱えていたが出演を引き受け、丹波は体調を気遣いながら撮影を進めたとされる。
丹波はこの映画を、パリの観光ガイドのように死後の世界の山や川や海を紹介する「霊界旅行記」だと説明していた。主演には当初オーソン・ウェルズを考えていたが断念し、長男の義隆を起用したという。霊界には動物がいないという理由で背景の鳥の声を消させるなど、細部まで自分の霊界観を反映させた。作品は配給収入9億円で1989年の邦画第9位というヒットとなり、1990年に『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』(配給収入3.2億円)、1994年に『大霊界3 死んだら生まれ変わる』が作られた。1994年には舞台版も上演されている。
長男が語る「本当の丹波哲郎」[編集]
長男の丹波義隆は、父は本当は誰よりも死を怖がっていたのではないかと振り返っている。普段は「あの世が本当の世界」と語りながら、母親が亡くなった際には遺体にすがって泣いたという。さらに1997年に妻・貞子が亡くなると、祖母のとき以上に激しく泣き、それ以後は霊界についてぴたりと語らなくなったと証言している。ノンフィクション作家の野村進は、5年以上の取材をもとに評伝『丹波哲郎 見事な生涯』(講談社、2024年)を著し、丹波がなぜ死後の世界にのめり込んだのかを掘り下げている。
家族[編集]
1949年、27歳のときに貞子と結婚。丹波家の援助がない中、貞子は衣装をすべて手作りし、故障しがちな中古のルノーを押して夫を撮影所へ送り出すなど、売れない時代の丹波を支えた。1958年、貞子はポリオ(小児麻痺)を発症して車椅子生活となり、丹波は特効薬を海外から取り寄せようと奔走するなど献身的に支えたとされる。貞子は「丹波哲郎」という商品を傷つけないよう、夫に車椅子を押させるのを嫌がったという。1997年に貞子が死去すると、遺骨の一部は生前好きだったハワイで散骨された。長男の丹波義隆は俳優で、『大霊界』では主演を務め、父の葬儀では喪主を務めた。
評価・反響[編集]
丹波は「名優」と「怪優」の両方の呼び名を持つ珍しい俳優である。『切腹』『砂の器』『二百三高地』に代表される重厚な演技は高く評価され、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞などで受賞を重ねた。他方、セリフを覚えない、遅刻する、霊界を語るといった型破りなエピソードの数々は、テレビのバラエティやトーク番組で長く愛され、本人もそれを楽しんでいた節がある。黒柳徹子とは芸能界で最も古い友人の一人とされ、『徹子の部屋』には10回以上出演した。
2006年9月30日に青山葬儀所で行われた告別式には約2,000人のファンが参列。棺には『キイハンター』や『Gメン'75』でかぶった黒のショートハットが納められ、弔辞では丹波の持論だった「あの世とこの世は地続き」という言葉が語られた。葬儀は無宗教形式で、戒名はつけられていない。没後には第44回ゴールデン・アロー賞芸能功労賞が贈られた。2022年には生誕100年を記念し、東京・池袋の新文芸坐で『殺人容疑者』『丹下左膳』『暗殺』『地獄』など10本を上映する特集上映が行われた。
放送・配信[編集]
2026年11月5日時点で、『Gメン'75』は放送50周年企画として東映ビデオから「全話HDリマスターBlu-ray BOX」が全8巻で順次発売中。全話を4Kスキャンしてリマスターしたもので、第1巻(1975年編)が2026年7月、第2巻が9月に発売され、第3巻(1977年編)は2026年11月11日発売予定、最終第8巻は2027年9月発売予定とされている。2026年8月には倉田保昭、伊吹剛、岡本富士太、藤田三保子が登壇する上映イベントも開かれた。テレビでは地上波・BS・CSの専門チャンネルで再放送や特別放送が行われることもあるが、放送・配信状況は時期により変わる。
映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』は、映画情報サイトFilmarksの2026年10月時点の情報では主要な定額配信サービスでの配信は確認されていない。『砂の器』『007は二度死ぬ』『切腹』などの代表作はDVD・Blu-rayで発売されているほか、各配信サービスで扱われることがあるが、配信の有無は時期により変わるため各サービスで確認したい。
炎上とバズ[編集]
- 1959年、新東宝の作品レベルを公然と批判し、社長の大蔵貢から謝罪を求められたが拒否。そのまま退社するという、当時としては前代未聞の騒動を起こした。
- 『Gメン'75』放送当時、交通違反で警察に止められた際に「Gメンの丹波だが」と名乗ったという逸話が広く知られる。本人は違反内容を一方通行の逆走だったと語っている。
- 創価学会の大会で講演した際、締めくくりにうっかり「南無阿弥陀仏」と言ってしまったという失敗談も、本人の持ちネタとして語られた。
- 死去翌年の2007年7月17日、丹波の誕生日に霊能者を通じて「霊界通信」があったと一部で伝えられた。
余談[編集]
- 『丹下左膳』(1963年)では殺陣がやりにくいという理由で、本来は左手で刀を持つ左膳を、左右を入れ替えて右手で持つ案を出したという。
- 原作を読んで『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵役を熱望したが、本命の松本幸四郎(初代松本白鸚)に決まっていたという。結果として丹波は1975年のテレビ版で平蔵を演じている。
- 『ザ・ヤクザ』(1974年、ロバート・ミッチャム主演)にも出演予定だったが、セリフが出てこずに降板し、ジェームス・シゲタが代役を務めたとされる。
- 愛犬協会の会長を務めた大の犬好き。『大霊界』に登場する犬「ゴン」は、長男・義隆の愛犬が演じている。
- 軍隊時代に厳しく当たられた川上哲治について、戦後に頭を下げて回る姿を見てその本性を理解した、と著書に書いている。
- 『大霊界』のロケ地は岐阜県の洞戸村などで、丹波は制作までに十数年かかったことを「霊界から待たされていた」と受け止めていたという。
- 墓所は多磨霊園。妻・貞子との墓には、結婚前の二人の白黒写真が納められているという。

