近衛十四郎
Jushiro Konoe
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e2/近衛十四郎_Jushiro_Konoe_(1967).jpg
1967年の近衛十四郎(大映『座頭市血煙り街道』より。出典:ウィキメディア・コモンズ)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/座頭市血煙り街道_Zatoichi_Challenged_(1967).jpg
『座頭市血煙り街道』(1967年)の一場面(出典:ウィキメディア・コモンズ)
本名 目黒寅彦(出生名:目黒寅一)
誕生日 1914年4月10日
死亡日 1977年5月24日
死亡年齢 63歳(数え年64)
出身地 新潟県長岡市
国籍 日本
学歴 長岡工業学校卒業
ジャンル 映画、テレビドラマ、時代劇、剣劇の実演
活動期間 1932年 - 1976年
家族 妻:水川八重子(女優)、長男:松方弘樹(俳優)、次男:目黒祐樹(俳優)、孫:仁科克基、仁科仁美、近衛はな ほか
事務所 亜細亜映画 → 大都映画 → 新東宝 → 松竹 → 東映 → フリー
代表作 『柳生武芸帳』シリーズ、『素浪人 月影兵庫』、『素浪人 花山大吉』、『座頭市血煙り街道』、『十七人の忍者』
関連活動 近衛十四郎一座(剣劇の実演興行)
あだ名 殺陣の神様、日本一のチャンバラ役者
その他 芸名の「十四郎」は1914年(大正3年)生まれに由来


概要[編集]

近衛十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)とは、戦前の剣戟映画から戦後の東映時代劇、そしてテレビの『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』までを駆け抜けた、日本の時代劇俳優である。「日本映画史上もっとも殺陣がうまい役者」と評されることも多いチャンバラの達人で、長男は松方弘樹、次男は目黒祐樹という俳優一家の家長でもある。

詳細[編集]

「殺陣の神様」と呼ばれた男[編集]

近衛十四郎の名前を聞いてまず語られるのが、とにかく殺陣(たて)が速くて重くて美しいということだ。時代劇の立ち回りは、主役が刀を振るたびに斬られ役がタイミングよく倒れていく「型」の芸だが、近衛の場合は刀そのものに重さと殺気が乗っており、画面越しにも「本当に斬れそう」に見える。時代劇評論家の永田哲朗は、剣豪スターを相撲の番付に見立てたランキングで近衛を横綱に置いたと書いているほどで、殺陣の評価に関しては同時代の大スターたちを押しのけてトップに挙げる声が根強い。

下積みの長さが育てた職人芸[編集]

近衛は決して最初から恵まれたスターではなかった。研究生として映画界に入ったのは1932年。その後、小さな映画会社を転々とし、兵役で3年近く映画界を離れ、戦後は旅回りの一座を率いて地方巡業を続けた。大手の看板スターとして脚光を浴びたのは40代半ばの東映時代になってからだ。この「遅咲き」ぶりと、実演の舞台で毎日のように立ち回りを繰り返した経験こそが、のちに映像で爆発する殺陣の地力になったと見る向きは多い。

テレビで迎えた第二の全盛期[編集]

映画界が時代劇から任侠路線へと舵を切った1960年代半ば、近衛は49歳でテレビへ進出する。NETテレビ(現在のテレビ朝日)の『素浪人 月影兵庫』では、それまでの重厚な剣豪のイメージを崩し、酒好きでだらしない、でも剣を抜けば無敵という三枚目の浪人を好演。相棒・焼津の半次(品川隆二)との漫才のような掛け合いで茶の間の大人気者となった。後継番組『素浪人 花山大吉』まで含めると、近衛が主演したこのシリーズは5年以上にわたって土曜夜のお茶の間を沸かせ続けた。

俳優一家の父として[編集]

私生活では、女優の水川八重子と1941年に結婚。長男は東映のスターとなる松方弘樹、次男は俳優の目黒祐樹で、さらに孫の世代にも芸能界で活躍する人物が多い。釣り好き、酒好きという趣味は、そのまま長男の松方弘樹に受け継がれたことでも有名だ。

経歴[編集]

生い立ちと下積み時代[編集]

1914年(大正3年)4月10日、新潟県長岡市に生まれる。出生名は目黒寅一で、のちに寅彦を名乗った。戸籍の上では長男だが、実際には兄が早くに亡くなっており、正確には次男にあたるとされる。13歳で父を亡くし、母の手で育てられた。

長岡工業学校を卒業したのち、1932年に市川右太衛門プロダクションの研究生となり、「長岡秀樹」の名で活動を始める。その後、東亜キネマを経て日活に入り、『血煙り荒神山』で映画デビュー。この時期は主に捕り手などの斬られ役・脇役をこなした。ちなみに、日活に入社できたのは野球のショートの守備の腕前を買われたからだという、いかにも戦前の撮影所らしい逸話も残っている。

「近衛十四郎」誕生と大都映画時代[編集]

1934年、監督の白井戦太郎に見いだされ、芸名を「近衛十四郎」と改める。「十四郎」は1914年生まれにちなむ。同年、亜細亜映画の第1回作品『叫ぶ荒神山』で吉良の仁吉を演じて主演デビューを果たしたが、亜細亜映画は興行不振に加えて室戸台風で撮影所が倒壊し、その年のうちに倒産してしまった。

1935年、白井とともに大都映画へ移籍。ここで剣戟映画の看板スターとして名を上げる。大都映画は低予算の娯楽作を量産する会社として知られていたが、そのぶん主演の立ち回りが映画の生命線であり、近衛の殺陣は観客の大きな呼び物になった。

兵役、そして近衛十四郎一座[編集]

1936年、新発田の連隊に入営し、映画界を一時離れる。1939年に復帰すると、留守のあいだに大都映画は大乗寺八郎を看板として引き抜いており、以後は両者がライバルとして並び立った。1941年には大都映画で共演していた女優・水川八重子と結婚している。

1942年、戦時統合によって大都映画は日活の製作部門などと合併し、大映が発足する。しかし大映には剣戟の大スターがすでにそろっていたため、近衛に出番はなかった。そこで近衛は妻とともに、退職金を元手に自らの一座を旗揚げ。全国を回って剣劇の実演興行を行い、最盛期には50人ほどの大所帯になったという。

抑留と復員[編集]

その後再び召集され、朝鮮半島北部の羅南で終戦を迎える。終戦後は中国・延吉で約1年9か月にわたる捕虜生活を送り、栄養失調や発疹チフス、壊血病に苦しんだ。シベリアへ連行されそうになった際には、食事を断って病人のふりをし、痛がる演技で連行を免れたという話が伝わっている。まさに役者の芸が命を救ったエピソードだ。1946年に復員した。

戦後の巡業と映画への復帰[編集]

復員後は一座の実演興行を再開し、1952年ごろまで約10年にわたって旅回りを続けた。しかしGHQによる規制が緩むと、娯楽の主役は女剣劇やストリップへと移り、剣戟芝居の客足は落ちていった。この苦しい時代については、のちの相棒・品川隆二が、当時の近衛がヒロポン(覚醒剤)中毒に陥っていたと証言したとも伝えられている。

その後、新東宝で映画にカムバックし、『江戸群盗伝』『修羅桜』などに主演。1954年には松竹へ移籍し、阪東妻三郎亡きあとの松竹時代劇を高田浩吉とともに支えた。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』では本格的な主演を務め、子役時代の次男・目黒祐樹とも共演している。だが1959年、松竹は時代劇製作から撤退してしまう。

東映移籍と『柳生武芸帳』[編集]

1960年、高田浩吉や鶴田浩二らとともに東映へ移籍。当時の東映は本家の東映と、量産体制のための第二東映(ニュー東映)の2系統で映画を配給しており、近衛は品川隆二、黒川弥太郎とともに第二東映の看板スターとなった。ただし第二東映には片岡千恵蔵や市川右太衛門といった重役スターは出演しない決まりがあり、興行面では本家に及ばなかった。第二東映は1961年に劇場用映画から撤退し、所属俳優は東映本社の所属に移った。

この東映時代に近衛の代名詞となったのが、1961年に始まる『柳生武芸帳』シリーズである。隻眼の剣豪・柳生十兵衛を演じ、白黒作品が中心ながら、そのニヒルで豪快な十兵衛像と、ずば抜けた立ち回りで人気を集めた。シリーズには長男の松方弘樹も出演し、親子共演が話題になった。

もっとも、東映の撮影所では、他社から来た近衛はいわば「よそ者」で、片岡千恵蔵や市川右太衛門、萬屋錦之介(当時は中村錦之助)らの看板作品に比べると、二線級の扱いを受けることが多かったとされる。それでも殺陣の評価は別格で、後世の評論家やファンが「東映時代劇最強の剣客」として名前を挙げる俳優であり続けている。

時代劇の終焉とテレビへ[編集]

1964年、東映の岡田茂が時代劇映画の製作打ち切りを打ち出し、東映は高倉健や鶴田浩二らの任侠映画路線へと大きく転換する。多くの時代劇スターや監督が契約を打ち切られたり、テレビへ活路を求めたりするなか、近衛も1965年、49歳でテレビ時代劇に進出した。

こうして始まったのが『素浪人 月影兵庫』(1965年 - 1968年)と、その後継作『素浪人 花山大吉』(1969年 - 1970年)である。いずれもNETテレビ系で放送され、高視聴率を記録する大ヒットとなった。映画では不遇をかこった近衛が、テレビでは一躍、国民的な人気者になったのである。

病気、晩年、そして釣り堀での急死[編集]

しかし長年の酒好きがたたり、糖尿病と高血圧が悪化。撮影中に倒れることもあり、1970年末にはドクターストップがかかって『花山大吉』は終了した。1973年、『素浪人 天下太平』でレギュラー主演に復帰し、同年の『いただき勘兵衛 旅を行く』では次男の目黒祐樹と共演したものの、往年の人気は戻らず、本人の申し出もあってシリーズは幕を下ろした。

その後は1971年に長男・松方の縁で東映のやくざ映画『日本やくざ伝 総長への道』『暴力団再武装』に出演したのち、東映を離れてフリーに。1976年ごろには体力の衰えから事実上引退し、晩年は会社経営に携わった。トルコ風呂(現在のソープランド)やモーテル、釣り堀の経営にも関わっていたとされる。

1976年7月、長年連れ添った妻・やゑ(水川八重子)が胃がんで亡くなる。医師から酒を止められていた近衛だが、妻を失ってからは逆に深酒が増えたと伝えられる。そして1977年5月、京都府亀岡市の釣り堀で長男・松方弘樹と釣りをしていた最中に脳内出血で倒れ、病院に運ばれた。一時は意識を取り戻したものの、5月24日未明、帰らぬ人となった。63歳だった。出棺の際には、愛飲したウイスキーを遺体に振りかけ、愛用の長い刀やへら竿、眼鏡、たばこなどが棺に納められたという。

殺陣と芸風[編集]

長い刀という発明[編集]

近衛の殺陣を語るうえで欠かせないのが、通常よりも柄(つか)の長い刀を使うという工夫である。柄が長いと両手の間隔を広く取れるため、てこの原理で刀を素早く、しかも力強く振り回せる。近衛はこれを自ら発案したとされ、画面に映る太刀筋の鋭さと重量感の秘密のひとつになった。死去の際、愛用の長い刀が棺に納められたというエピソードからも、本人がこの刀にどれだけこだわっていたかがうかがえる。

速さと「本気」の迫力[編集]

近衛の立ち回りは、とにかく一太刀ごとのスピードが段違いだといわれる。それでいて腰が据わっており、刀を振り切ったあとの姿勢がぶれない。そのため斬られ役の動きと合わせても「型を見せている」感じが薄く、実際に斬り合っているかのような緊張感が生まれる。

阪東妻三郎の系譜[編集]

東映時代の近衛は、ニヒルで孤独な浪人役を得意とし、その姿は戦前の剣戟王・阪東妻三郎を思わせると評された。一方、テレビの『月影兵庫』『花山大吉』では、そうした重厚さをわざと崩した三枚目を演じ、豪快な笑いと鋭い剣技の落差で人気を博した。シリアスとコミカルの両方を、同じ「殺陣のうまさ」という軸で成立させた点が、近衛という俳優の唯一無二の魅力といえる。

主な出演作[編集]

映画[編集]

  • 『血煙り荒神山』(日活) - 映画デビュー作
  • 『叫ぶ荒神山』(1934年、亜細亜映画) - 主演デビュー、吉良の仁吉役
  • 『地平線』(1939年)
  • 『大空の遺書』(1941年)
  • 『戦艦大和』(1953年)
  • 『獄門帳』(1955年)
  • 『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』(1957年、松竹)
  • 『浪人街』(1957年)
  • 『柳生旅日記 天地夢想剣』(1959年) - 柳生十兵衛役
  • 『赤穂浪士』(1961年、東映) - 清水一学役
  • 『怪談お岩の亡霊』(1961年)
  • 『赤い影法師』(1962年、東映) - 服部半蔵役
  • 『柳生武芸帳』シリーズ(1961年 - 1964年、東映) - 柳生十兵衛役
  • 『十七人の忍者』(1963年、東映)
  • 『城取り』(1965年)
  • 『日本大侠客』(1966年、東映)
  • 『座頭市血煙り街道』(1967年、大映) - 赤塚多十郎役
  • 『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』(1968年、東映)
  • 『日本やくざ伝 総長への道』(1971年、東映)
  • 『暴力団再武装』(1971年、東映)
  • 『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』(1981年、東映) - 過去の出演映像が使われたドキュメンタリー

テレビドラマ[編集]

  • 『柳生武芸帳』(1965年、NET) - 柳生十兵衛役
  • 『素浪人 月影兵庫』(1965年 - 1966年、1967年 - 1968年、NET) - 月影兵庫役
  • 『素浪人 花山大吉』(1969年 - 1970年、NET) - 花山大吉役
  • 『素浪人 天下太平』(1973年、NET) - 主演
  • 『いただき勘兵衛 旅を行く』(1973年) - 主演、次男・目黒祐樹と共演
  • 『運命峠』(1974年) - 柳生宗矩役
  • 『徳川三国志』(1975年、NET)
  • 『あがり一丁!』
  • 『姿三四郎』、『水戸黄門』、『風雲真田城』、『竜馬がゆく』、『大岡越前』、『父子鷹』 ほか(ゲスト出演など)

『柳生武芸帳』シリーズ[編集]

原作と東映版の特徴[編集]

原作は剣豪小説の名手・五味康祐の同名小説で、『週刊新潮』で1956年から1958年にかけて連載された。柳生一族と、その秘密が記された「武芸帳」をめぐる争奪戦を描く大長編だが、物語が錯綜したこともあって連載は中断し、作者の死去により未完に終わっている。1957年から1958年には東宝で三船敏郎主演の映画版も作られ、霞の千四郎を鶴田浩二が演じた。

これに対し近衛主演の東映版は、柳生十兵衛を主人公に据えた娯楽活劇シリーズとして作られた。映画評論家の山根貞男が「正しくは近衛十四郎による柳生十兵衛シリーズというべきかもしれない」と評したように、原作のストーリーよりも近衛の十兵衛と殺陣そのものが主役のシリーズだった。

主な作品[編集]

  • 『柳生武芸帳 夜ざくら秘剣』(1961年) - ニュー東映製作
  • 『柳生武芸帳 片目の十兵衛』(1963年)
  • 『柳生武芸帳 片目水月の剣』(1963年)
  • 『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』(1963年)
  • 『柳生武芸帳 片目の忍者』(1963年) - シリーズ最終作とされる作品。原作のエピソードを使い切ったため高田宏治のオリジナル脚本
  • 『柳生一番勝負 無頼の谷』『十兵衛暗殺剣』(1964年)なども含めて、9本のシリーズとして数えられることがある

シリーズ後半の脚本の多くを手がけたのは、のちに『仁義なき戦い』シリーズの続編などで知られる高田宏治で、音楽は『月影兵庫』『花山大吉』でもおなじみの阿部皓哉が担当した。品川隆二もシリーズに何度も敵役として出演しており、のちの名コンビの原点はここにあったともいえる。

『素浪人 月影兵庫』と『素浪人 花山大吉』[編集]

『素浪人 月影兵庫』[編集]

南條範夫の小説を原作とする連続時代劇で、NETテレビと東映京都テレビプロダクションが制作した。第1シリーズは1965年10月から1966年4月まで火曜20時枠で全26話、第2シリーズは1967年1月から1968年12月まで土曜20時枠で全104話が放送された。

近衛演じる月影兵庫は、酒好きで行儀が悪く、胡桃(くるみ)をカチカチ鳴らす癖がある浪人。ふだんはとぼけた三枚目だが、ひとたび刀を抜けばめっぽう強い。品川隆二演じる焼津の半次は曲がったことが大嫌いな渡世人で、兵庫からは「半の字」と呼ばれる。第2シリーズではコメディ色が一気に強まり、兵庫は猫が、半次は蜘蛛が大の苦手という設定が加わった。サブタイトルが「貴様と俺とはバカだった」のようにすべて過去形の文で統一されているのもユニークだ。

人気は凄まじく、1967年9月放送の「貴様と俺とはバカだった」では最高視聴率35.7%を記録。テレビ朝日の開局60周年企画で発表された1960年代の番組ランキングでも上位に入っている。ところが、原作のイメージから大きく離れたコメディ路線に原作者の南條範夫からクレームが入り、番組は終了することになった。最終回では兵庫が松平伊豆守の甥であることが明かされ、江戸へ帰っていく。

『素浪人 花山大吉』[編集]

『月影兵庫』の事実上の続編として、1969年1月から1970年12月まで、同じく土曜20時枠で全104話が放送された。原作から離れたオリジナル作品とすることで、コメディ路線をそのまま続けたわけである。第13話まではモノクロで、第14話からカラー放送になった。

主人公の花山大吉は、月影兵庫と瓜二つの顔を持ち、剣の腕は兵庫以上という豪放な素浪人。「よろず相談屋」で日銭を稼ぐがいつも金欠で、大の好物はなんと「おから」。居酒屋におからがないと露骨に不機嫌になり、第1話ではおから68人前と酒48本を平らげて泥酔するという伝説的な食べっぷりを見せた。極度に緊張したり驚いたりするとしゃっくりが止まらなくなり、腰のひょうたんの酒を飲むと収まるというお約束も人気だった。口癖は「けしからん」「いかんなあ」「このバカタレが!」など。

焼津の半次は前作から引き続き登場し、大吉を「ダンナ」と呼んで一緒に旅をする。博打で稼いだ金を大吉にたかられて使い果たすのがお決まりのパターンで、口論になると刀の下緒をかじって悔しがる。第79話からは熊のぬいぐるみを抱えたおてんば娘・お咲(南弘子)も加わり、珍道中はさらににぎやかになった。

名コンビ・近衛十四郎と品川隆二[編集]

両作の人気を支えたのは、なんといっても近衛と品川隆二の掛け合いである。とぼけた浪人とお調子者の渡世人が、毎回くだらないことで言い争いながら旅を続け、最後は悪人たちを近衛の豪快な殺陣で一網打尽にする。このお約束の安心感と、殺陣の本物の迫力の組み合わせが、子どもから大人まで幅広い層をテレビの前に釘付けにした。

もっとも、二枚目志向だった品川本人は、三枚目の半次役が実は大嫌いだったと語っていたとされる。それでも視聴者にとっては「近衛と品川」は切っても切れないコンビであり、2007年には二人をテーマにした書籍『品川隆二と近衛十四郎 近衛十四郎と品川隆二』も刊行された。

家族[編集]

妻・水川八重子[編集]

妻の水川八重子(本名:角西やゑ)は大都映画などで活躍した女優で、1941年に近衛と結婚した。家庭での近衛はいわゆる亭主関白で、酒や花柳界での遊びも多かったと伝えられるが、やゑは戦中・戦後の一座の旅回りから晩年まで夫を支え続けた。1976年に胃がんで亡くなり、近衛はその翌年に後を追うように世を去っている。

長男・松方弘樹[編集]

1942年生まれの長男・松方弘樹(本名:目黒浩樹)は、1960年に東映に入社して俳優デビュー。『柳生武芸帳』シリーズで父と共演したほか、のちに『仁義なき戦い』シリーズなど実録やくざ映画や、テレビ時代劇の大スターとなった。同期入社の北大路欣也とは「二世スターコンビ」として売り出されたが、北大路の父・市川右太衛門と近衛が師弟関係にあったこともあり、二人は何かと比較された。釣り好き・酒豪という父の気質を色濃く受け継いだことでも知られ、父子でスコッチウイスキーのCMに出演したこともある。

次男・目黒祐樹[編集]

1947年生まれの次男・目黒祐樹も俳優で、子役時代に父と『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』で共演。その後も『素浪人 天下太平』『いただき勘兵衛 旅を行く』『徳川三国志』『あがり一丁!』などで父と共演した。妻は女優の江夏夕子で、娘は女優の近衛はな。孫が祖父の芸名「近衛」を受け継いでいるのは、ファンにとってうれしいポイントだ。

孫の世代[編集]

松方弘樹の子である仁科克基、仁科仁美、目黒大樹、十枝真沙史、目黒祐樹の娘・近衛はなと、孫の世代にも芸能活動をする人物が多く、近衛家は三代にわたる俳優一家となっている。

評価・影響[編集]

「最強の剣客俳優」論争[編集]

時代劇ファンの間では「一番殺陣がうまいのは誰か」という話題がたびたび持ち上がるが、そこで必ず名前が挙がるのが近衛十四郎である。萬屋錦之介、勝新太郎、若山富三郎、大川橋蔵といった名だたるスターと並べても、純粋な剣さばきの速さと重さでは近衛が上だとするファンは少なくない。とりわけ『座頭市血煙り街道』で勝新太郎と雪の中で対決するクライマックスは、シリーズ屈指の名勝負として語り継がれている。

勝新太郎との対決[編集]

『座頭市血煙り街道』(1967年、大映)は座頭市シリーズの第17作で、近衛は幕府の隠密・赤塚多十郎を演じた。主演の勝新太郎が自ら近衛に出演を依頼したとされ、他社の大物を迎えての一騎打ちはシリーズの中でも特に評判が高い。利き腕を斬られた赤塚が「わしの負けだ」と言い残して去っていく結末は、二人の剣士への敬意に満ちた名場面だ。

後世への影響[編集]

『月影兵庫』『花山大吉』の、強い主人公とお調子者の相棒が珍道中を繰り広げるというフォーマットは、のちのテレビ時代劇やアニメにも影響を与えた。アニメ監督の大地丙太郎は『月影兵庫』のファンを公言しており、アニメ『風まかせ月影蘭』はこの作品から強い影響を受けている。また漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にも、番組の変遷に触れたくだりがある。

余談[編集]

  • 日活に入社できたのは、野球でショートの守備がうまかったからだという逸話がある。
  • 釣りが大好きで、映画のロケにも釣り竿を持参していたという。釣り好きは長男の松方弘樹にそのまま受け継がれ、松方は後に大物マグロ釣りで有名になった。松方の釣り仲間として知られた梅宮辰夫らとの釣り番組の原点も、この父の趣味にあったといえる。
  • 最期も、その大好きな釣りを息子としている最中だった。
  • 酒豪としても有名で、亡くなったときには好物のウイスキーが遺体に振りかけられた。法名は「無侶院釋重道」。
  • 『花山大吉』で大吉が平らげた「おから68人前と酒48本」は、時代劇史に残る大食いシーンとしてファンの語り草になっている。
  • 『花山大吉』第79話から登場するお咲は、ポニーテールにミニスカート風の衣装、熊のぬいぐるみという当時としてもかなり大胆な時代考証無視のキャラクターで、後年になって論考で取り上げられたこともある。
  • 『月影兵庫』第2シリーズはフィルムの保存状態が悪く、全104話の約半分が欠番扱いになっているとされる。
  • 1967年に勝新太郎と共演した『座頭市血煙り街道』の頃の近衛はすでに50代だったが、殺陣のキレはまったく衰えていなかったと評されている。

外部リンク[編集]

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