| 伊丹十三 いたみ じゅうぞう / Juzo Itami | |
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![]() 1992年ごろの伊丹十三(出典:ウィキメディア・コモンズ「1992 Juzo Itami.jpg」) | |
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愛媛県松山市の伊丹十三記念館(出典:ウィキメディア・コモンズ) | |
| 本名 | 池内義弘(いけうち よしひろ)※家庭では「岳彦」と呼ばれて育った |
| 誕生日 | 1933年5月15日 |
| 死亡日 | 1997年12月20日 |
| 死亡年齢 | 64歳(数え年65) |
| 出身地 | 京都市(京都府京都市右京区生まれ。少年期の一時期を愛媛県松山市で過ごす) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 愛媛県立松山南高等学校卒業、舞台芸術学院 |
| ジャンル | 映画(監督・脚本・俳優)、テレビドラマ、エッセイ、ドキュメンタリー、商業デザイン |
| ポジション | 映画監督・俳優・脚本家・エッセイスト |
| 活動期間 | 1960年 - 1997年 |
| デビューアルバム | 1960年 大映入社(芸名「伊丹一三」)、1984年『お葬式』で監督デビュー |
| 家族 | 父:伊丹万作(映画監督)、妻:宮本信子(女優)、長男:池内万作(俳優)、次男:池内万平、義弟:大江健三郎(作家) |
| 事務所 | 伊丹プロダクション |
| 代表作 | 『お葬式』、『タンポポ』、『マルサの女』、『ミンボーの女』、『スーパーの女』、『マルタイの女』、著書『ヨーロッパ退屈日記』 |
| 関連活動 | 雑誌『モノンクル』編集主幹、テレビマンユニオンでのドキュメンタリー制作、本の装丁・レタリング |
| その他 | 日本アカデミー賞 最優秀監督賞・最優秀脚本賞(『お葬式』)、キネマ旬報賞 助演男優賞(『家族ゲーム』『細雪』)ほか多数 |
| リンク | https://itami-kinenkan.jp/ |
概要[編集]
伊丹十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)とは、日本の映画監督・俳優・脚本家・エッセイストである。本名は池内義弘。51歳で撮った監督デビュー作『お葬式』がいきなり大ヒットし、その後『タンポポ』『マルサの女』『ミンボーの女』と、社会の裏側を取材し尽くした娯楽作を連発して「伊丹映画」というブランドを築いた。デザイナー、俳優、エッセイスト、テレビの作り手として積み上げた全経験を映画に注ぎ込んだ、昭和の「マルチタレント」の完成形のような人物。
詳細[編集]
映画監督・伊丹万作の息子[編集]
父は戦前の名監督・脚本家の伊丹万作。万作は風刺の効いた時代劇で知られ、黒澤明作品の共同脚本家として名を残す橋本忍が「唯一の弟子」として師事した人物でもある。十三という芸名の「伊丹」はこの父から受け継いだもの。ただし万作は1946年、十三がまだ中学1年のときに病死しており、父の現場を間近で学んだわけではない。のちに十三自身が映画監督になったのは51歳のときで、親子二代の監督でありながら、その道のりはまったく別物だった。
「何でも屋」から映画監督へ[編集]
伊丹十三の経歴は寄り道の連続である。商業デザイナー、大映の俳優、ハリウッド大作の脇役、ベストセラーエッセイスト、テレビドキュメンタリーの作り手兼レポーター、ワイドショーのリポーター、精神分析雑誌の編集長、CMタレント。一つひとつは別々の仕事に見えるが、本人は『お葬式』を撮ったとき「これまでの経験が全部映画に活かせる」と気づいたとされる。取材力はドキュメンタリーから、画面の隅々までの美意識はデザイナー時代から、軽妙な語り口はエッセイから来ている、というわけだ。
社会派エンタメの開拓者[編集]
『マルサの女』では国税局査察部を、『ミンボーの女』では暴力団の民事介入暴力を、『大病人』では医療を、『スーパーの女』では食品スーパーの裏側を、と、伊丹映画は毎回「日本社会のある業界」を徹底的に取材して物語にした。テーマは硬いのに、見終わると笑って元気になれるのが最大の特徴。一般観客と評論家の両方から支持され、公開されるたびにヒットした監督は当時でも珍しかった。
妻・宮本信子との二人三脚[編集]
監督作10本のほぼすべてで主演を務めたのが、妻で女優の宮本信子である。『お葬式』の喪主の妻、『タンポポ』のラーメン屋の女主人、『マルサの女』のおかっぱ頭の査察官、『ミンボーの女』の弁護士、『スーパーの女』のスーパー店員と、毎回まったく違う「働く女」を演じた。伊丹映画のヒロイン像は、ほぼ宮本信子という女優の存在と切り離して語れない。
経歴[編集]
少年時代:京都と松山[編集]
1933年5月15日、京都市右京区で伊丹万作の長男として生まれる。池内家の通字「義」をとって戸籍名は義弘となったが、父は「岳彦」と名付けるつもりだったため、家では「岳彦(タケちゃん)」と呼ばれて育ち、本人もずっと自分は岳彦だと思っていたという。戦時中には京都の国民学校に設けられた「特別科学教育学級」に編入され、当時としては例外的な英語教育を受けた。同級生には物理学者・湯川秀樹の長男らがいた。
1946年に父が死去。1950年、母や妹とともに愛媛県松山市に移り、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入した。ここで2年次から転入してきたのが、のちのノーベル文学賞作家・大江健三郎である。二人は親友となり、のちに大江は伊丹の妹ゆかりと結婚、伊丹にとっては義弟となった。伊丹はその後松山南高校に転じ、1954年に20歳で卒業している。
商業デザイナー時代[編集]
高校卒業後に上京し、新東宝の編集部に就職。映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、電車の中吊り広告や雑誌の目次デザインを手がけた。この頃に作家の山口瞳と出会い、生涯の友となる。特にレタリングの腕は一級品で、映画監督の山本嘉次郎は「伊丹十三さんの明朝体は日本一」と絶賛したとされる。この技術は晩年まで健在で、自著の装丁やポスター、宮本信子の楽屋暖簾まで自分でデザインした。
俳優「伊丹一三」と国際派の60年代[編集]
舞台芸術学院で演技を学び、1960年1月、26歳で大映に入社。社長の永田雅一から、父・伊丹万作と阪急・東宝の創業者小林一三にちなんだ「伊丹一三」という芸名をもらって俳優デビューした。1961年にはフリーとなり、英語力を武器にハリウッド大作『北京の55日』(1963年)や英米合作『ロード・ジム』(1965年)に出演。ロンドンに滞在していた時期もあり、そこで見聞きしたヨーロッパ文化を綴ったエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)がベストセラーとなった。続く『女たちよ!』などで、気取ったようでいて実用的な独特の文体は多くの読者をつかんだ。
私生活では1960年に映画配給・輸入で知られる川喜多長政の娘・川喜多和子と結婚したが、1966年に協議離婚。NHKドラマ『あしたの家族』(1965 - 1967年)で共演した宮本信子と交際し、1969年元日に山口瞳の媒酌で再婚した。1967年4月には「マイナスをプラスに変える」という意味を込めて芸名を「伊丹十三」に改めている。同じ1967年には大島渚監督の『日本春歌考』にも出演した。
テレビ・雑誌・精神分析の70年代[編集]
1970年代にはテレビ制作会社テレビマンユニオンに参加し、紀行番組『遠くへ行きたい』などのドキュメンタリー制作に携わりつつ自らレポーターも務めた。70年代後半にはワイドショー『アフタヌーンショー』のリポーターとして、事件現場の様子をスタジオで精密なイラストにして見せるという芸当も披露している。
一方で心理学者・岸田秀の『ものぐさ精神分析』に強く傾倒し、1978年に岸田との共著『哺育器の中の大人』を出版。1981年には現代思想誌『モノンクル』(フランス語で「ぼくのおじさん」)を創刊して編集主幹を務めたが、6号で終刊した。俳優業も続けており、NHK大河ドラマでは『国盗り物語』(1973年)の足利義昭、『峠の群像』(1982年)の吉良上野介、『春の波涛』(1985年)の伊藤博文などを演じた。1983年には森田芳光監督『家族ゲーム』の父親役と、市川崑監督『細雪』の演技でキネマ旬報賞助演男優賞などを受賞し、俳優としても再評価された。
51歳の監督デビュー[編集]
1984年、宮本信子の父の葬儀を喪主側として経験したことをきっかけに、わずか1週間ほどで脚本を書き上げたのが『お葬式』である。お葬式という誰もが経験するのに誰も中身をよく知らない儀式を、ドキュメンタリーのような観察眼とブラックユーモアで描いたこの作品は大ヒットし、日本アカデミー賞をはじめ30を超える映画賞を獲得した。喪主の妻の母を演じた菅井きんは同賞の最優秀助演女優賞を受けている。
以後、ほぼ1〜2年に1本のペースで新作を発表し、その多くは東宝系で公開されてヒットした。1989年には黒沢清監督のホラー映画『スウィートホーム』の製作総指揮も務めている。
監督作品[編集]
伊丹十三が監督した長編映画は全10本。すべて自ら脚本も書いている。
| 公開年 | タイトル | 題材・メモ |
|---|---|---|
| 1984 | お葬式 | 監督デビュー作。突然の義父の死に右往左往する俳優夫婦の3日間 |
| 1985 | タンポポ | 「ラーメン・ウエスタン」。海外で特に人気が高い |
| 1987 | マルサの女 | 国税局査察部の女性査察官と脱税者の攻防 |
| 1988 | マルサの女2 | 宗教法人を隠れみのにした地上げ屋との対決 |
| 1990 | あげまん | 男を出世させる「あげまん」の女性を描く |
| 1992 | ミンボーの女 | 暴力団の民事介入暴力と戦う弁護士。公開直後に監督が襲撃される |
| 1993 | 大病人 | 末期がんの映画監督を通して医療と死を描く |
| 1995 | 静かな生活 | 大江健三郎の小説が原作。知的障害のある兄と妹の日々 |
| 1996 | スーパーの女 | 傾いたスーパーを主婦が立て直す。食品売り場の裏側を取材 |
| 1997 | マルタイの女 | 殺人事件の目撃者となった女優と警護の刑事。遺作 |
『タンポポ』[編集]
1985年の2作目『タンポポ』は、売れないラーメン屋の女主人タンポポ(宮本信子)が、流れ者のトラック運転手ゴロー(山崎努)らの助けで店を繁盛させるまでを、西部劇の型を借りて描いた「ラーメン・ウエスタン」。本筋の合間に、白い服のヤクザ(役所広司)とその愛人の官能的な食の場面など、「食と欲望」をめぐる短いエピソードが次々に挟み込まれる構成が独特で、ゴローの相棒ガン役で若き日の渡辺謙も出演している。
国内以上にアメリカで評判となり、本作に影響を受けてラーメン店を開いた人まで現れたとされる。2016年には4Kリストア版がアメリカで再公開され、2017年には日本でも凱旋上映。2022年にはスペインのサン・セバスティアン国際映画祭のクラシック部門でも4K版が上映されるなど、没後も海外での再評価が続いている。白服の男と愛人が生卵の黄身を口移しで行き来させる場面は特に有名で、演じた黒田福美は後年、卵を何個も使い、レインコートを着てリハーサルを重ねたと明かしている。
『マルサの女』シリーズ[編集]
1987年の『マルサの女』は、国税局査察部(通称「マルサ」)の査察官・板倉亮子(宮本信子)が、ラブホテル経営者の権藤(山崎努)の巧妙な脱税を暴いていく物語。そばかすにおかっぱ頭という宮本のビジュアル、本多俊之による中毒性の高いテーマ曲、査察の手口の細かすぎる描写が話題となり、「マルサ」という言葉自体を一般に広めた。日本アカデミー賞では最優秀作品賞を含む主要部門を多数受賞している。
この作品のメイキング映像『マルサの女をマルサする』を撮ったのが、のちに『Shall we ダンス?』で知られる周防正行である。周防は伊丹の現場を間近で記録したことが監督としての大きな糧になったとされ、伊丹映画の系譜を受け継ぐ存在と見なされることも多い。翌1988年には宗教法人と地上げを題材にした続編『マルサの女2』も公開された。
『ミンボーの女』[編集]
1992年の『ミンボーの女』は、ホテルにたかる暴力団に対し、民事介入暴力(ミンボー)専門の女性弁護士・井上まひる(宮本信子)が法律と度胸で立ち向かう物語。それまでの日本映画では「ヤクザ映画」というジャンルがあるほど暴力団が格好よく描かれがちだったのに対し、本作は「市民が毅然と対応すればヤクザは引き下がる」と、彼らを徹底的に滑稽で卑小な存在として描いた。観客には大受けしたが、その代償は大きかった(後述)。ホステス役で出演した朝岡実嶺は、本作の泣き続ける演技で印象を残している。
遺作『マルタイの女』[編集]
1997年の『マルタイの女』は、殺人事件を目撃した女優(宮本信子)が、裁判で証言するまで警察の身辺警護対象者(マルタイ)として刑事に守られる物語。『ミンボーの女』公開後の襲撃事件で、伊丹自身が長期間にわたって警護を受けた経験がもとになっている。結果的にこれが最後の監督作となった。
作風・人物[編集]
アドリブ禁止、小道具まで完璧主義[編集]
伊丹の現場は徹底した完璧主義で知られる。俳優には台詞の一言一句までアドリブを許さず、画面に映る小道具一つにも妥協しなかった。台本の装丁から宣伝の細部まで自分で手を入れ、自分へのインタビュー記事にも徹底的に赤を入れるため、原形をとどめないことも珍しくなかったという。一方で、俳優がNGを出しても怒鳴りつけることはなく、役者にとっては非常にやりやすい監督だったという証言も多い。
映画史の引用と「死」のモチーフ[編集]
『お葬式』には、伊丹が傾倒していた映画評論家・蓮實重彦の映画論を強く意識し、1930〜40年代ハリウッド映画のショットの引用が多数ちりばめられているとされる。また『お葬式』以降の作品では一貫して「死」が描かれ続けた。陽気な食のコメディである『タンポポ』でさえ、白服のヤクザは最後に銃弾を浴びて命を落とす。娯楽作の顔をしながら、人生の終わりを常に画面のどこかに置いていた監督だった。
文化人サロンとエッセイスト[編集]
伊丹の周りには、コピーライターの糸井重里、作家の村松友視、イラストレーターの篠原勝之ら当時の文化人が集まり、一種のサロンができていたという。料理通としても知られ、エッセイや著書では西洋料理の作法から家庭料理までを独特の語り口で論じた。翻訳も手がけ、主夫の育児・家事体験を描いた『主夫と生活』の訳者でもある。代表的な著書は『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『日本世間噺大系』『小説より奇なり』『「マルサの女」日記』『「大病人」日記』など。現在も新潮社や文藝春秋の文庫で読み継がれている。
『ミンボーの女』襲撃事件[編集]
1992年5月22日夜、『ミンボーの女』の公開から約1週間後、伊丹は東京都内の自宅近くで刃物を持った5人組に襲われ、顔や両腕などに全治3か月の重傷を負った。警察の捜査で、犯行は山口組系後藤組の組員によるものと判明し、5人は懲役4年から6年の刑を受けた。
病院に運ばれる際、報道陣の「大丈夫ですか」という呼びかけに声は出せないままピースサインで応えた姿はよく知られている。伊丹は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」とのコメントを発表し、その後も作品を撮り続けた。事件は暴力団対策を求める世論を後押しし、日本弁護士連合会も声明を出すなど大きな社会問題となった。英語圏の資料では、この事件が当局の暴力団取り締まり強化につながったと説明されることもある。
翌1993年5月には、『大病人』を上映中の映画館で自称右翼の男がスクリーンを切り裂く事件も起きるなど、伊丹は数々の脅迫や嫌がらせにさらされ、長期間警察の身辺警護を受けることになった。この経験が遺作『マルタイの女』に結実している。
死去と諸説[編集]
公式の経緯[編集]
1997年12月20日18時40分ごろ、伊丹プロダクションの事務所があった東京都港区内のマンションの下で倒れているのを住民が発見し、病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。64歳没。警察は屋上からの投身自殺と判断し、これが現在も公式の結論である。葬儀は故人の遺志により行われなかった。
事務所にはワープロで印字された遺書とみられる文書が残されており、そこには「身をもって潔白を証明します」という趣旨の文言があった。死の直後の12月22日には、写真週刊誌『FLASH』(光文社)が伊丹と若い女性との不倫疑惑を報じる記事を掲載。米クリスチャン・サイエンス・モニター紙によれば、遺書には相手の女性はただの友人で、渡した金も引っ越し資金として貸しただけだという趣旨が書かれていたという。このため当時は「写真週刊誌の報道への抗議の死」と受け止められ、週刊誌報道のあり方を問う論調も国内外で起きた。
疑問を呈する声[編集]
一方で、自殺という結論に疑問を投げかける声も当初から根強い。主な論点は次のとおり。
- 遺書の形式:日本有数のレタリングの名手として手書き文字に強いこだわりを持っていた伊丹が、遺書だけはワープロで打っている点を不自然だとする見方がある。
- 直前の様子:死の直前に『FLASH』記者から疑惑を問われた際には「(不倫疑惑は)いつものことだから」と笑って受け流していたとされ、死の数日前まで次回作に向けた医療廃棄物問題の取材も続けていたという。次回作として「OL」もの(いわゆる『キャリアの女』)の構想を周囲に語っていたという証言もある。
- 知人の証言:古くからの友人だった大島渚や落語家の立川談志らは、「不倫報道くらいで自殺するような男ではない」などと語り、自殺を否定的に受け止めた。妻の宮本信子や友人たちも、報じられたような夫婦の危機はなかったとして報道に強い不信を示したと海外紙は伝えている。
- 他殺説:米国人ジャーナリストのジェイク・エーデルスタインは著書の中で、伊丹は当時、後藤組と宗教団体との関係を題材にした映画を構想しており、それを快く思わない勢力が自殺に見せかけて殺害したと、取材した元組関係者が語ったと記している。
ただし、こうした他殺説を裏付ける捜査結果や公的な再調査は公表されておらず、名指しされた側が関与を認めた事実もない。現時点で確かなのは「警察は自殺と判断した」「その判断に疑問を持つ関係者や論者がいる」という2点であり、真相は今も議論の対象になっている。
家族・交友[編集]
- 父・伊丹万作:映画監督・脚本家。戦前に風刺の効いた作品で知られ、1946年に死去。弟子の橋本忍はのちに黒澤明の『羅生門』『七人の侍』などの共同脚本を手がけた。
- 妻・宮本信子:女優。伊丹作品の主演女優であり、没後は伊丹十三記念館の館長を務める。近年もNHK連続テレビ小説『あまちゃん』の祖母・夏役などで活躍。2025年の「伊丹十三4K映画祭」では、ドラマ演出家の塚原あゆ子と『お葬式』上映後のトークに登壇した。
- 義弟・大江健三郎:高校時代からの親友で、妹の夫。伊丹は大江の小説を原作に『静かな生活』を監督した。大江は伊丹の死後、2000年の長編『取り替え子(チェンジリング)』で、伊丹を思わせる人物の死と向き合っている。
- 息子たち:長男の池内万作は俳優。名前は祖父・伊丹万作の筆名から取られた。次男は池内万平。
- 周防正行:前述のとおり『マルサの女』のメイキングを撮り、伊丹十三賞の選考委員も務めた。
- 黒沢清:伊丹は黒沢の初期作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に出演し、のちに『スウィートホーム』で製作総指揮を務めた。同作はカプコンによってファミリーコンピュータ用ゲームにもなっている。
没後:伊丹十三記念館と伊丹十三賞[編集]
伊丹十三記念館[編集]
2007年5月、伊丹が少年時代を過ごした愛媛県松山市に、宮本信子が館長を務める「伊丹十三記念館」が開館した。建築家・中村好文の設計で、常設展示は名前の「十三」にちなんだ13のコーナーで構成され、デザイナー、俳優、エッセイスト、料理通、映画監督といった多彩な顔を一つずつ紹介している。晩年を過ごした神奈川県湯河原の家などから集めた遺品も展示されており、館内には伊丹が好んだシャンパンなどを出すカフェもある。毎月13日の13時から伊丹映画を1本上映する企画も行われている。
開館時間は10時から18時(入館は17時30分まで)、休館日は火曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始。入館料は大人800円、高校・大学生500円、中学生以下無料(最新情報は公式サイトで要確認)。
伊丹十三賞[編集]
記念館を運営する財団により2008年に創設され、2009年から毎年、「言語表現を主軸としたもの」と「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を交互に対象として、伊丹のように多方面で活躍する表現者に贈られている。主な受賞者は以下のとおり。
炎上とバズ[編集]
- 『ミンボーの女』襲撃:暴力団をコケにした映画が実際に暴力団の襲撃を招いたことで、「表現の自由と暴力」を象徴する事件として社会的な大議論になった。
- 『大病人』スクリーン切り裂き事件:1993年、自称右翼の男が上映中の劇場でスクリーンを切り裂いた。
- 写真週刊誌報道と死:死の直後に『FLASH』の不倫疑惑記事が出たことで、写真週刊誌の取材・報道手法に批判が集中した。
- 海外での『タンポポ』ブーム:2016年の4K版米国公開を機に、欧米の映画ファンやフード系メディアで「史上最高の食べ物映画」の一つとして再び話題となった。
余談[編集]
- 映画監督の山本嘉次郎に「明朝体は日本一」と言わしめたレタリングの腕前は、伊丹作品のタイトルロゴやポスターにも活かされている。
- 戸籍名は義弘だが、子どもの頃は家族から「岳彦」と呼ばれ、本人もそれが本名だと思い込んでいたという。
- 1968年ごろのTBSドラマ『コメットさん』への出演で、スペイン語圏など海外でも顔を知られる存在になったとされる。
- 伊集院光は、死の直前に伊丹から「次はお局OLがテーマの映画を撮る。君にも出てもらう」と言われていたと語っている。
- 伊丹十三記念館では十三にちなんだ「十三饅頭」などのオリジナルグッズも販売されている。
