高田みづえ
たかだ みづえ / Mizue Takada
基本情報
本名 高田みづえ(結婚後は日高みづえ)
誕生日 1960年6月23日
年齢 66歳
出身地 鹿児島県揖宿郡頴娃町(現・南九州市)
国籍 日本
ジャンル 歌謡曲、ポップス
活動期間 1977年 - 1985年
デビューアルバム 1977年3月25日 シングル「硝子坂」
家族 夫・若嶋津六夫(元大関、元二所ノ関親方、2026年死去)、一男一女
身長 / 体重 153.8 cm / ― kg
レーベル テイチク(ユニオンレコード)
事務所 バーニングプロダクション
関連活動 松ヶ根部屋・二所ノ関部屋の女将、南九州市観光大使(2017年 - )
その他 NHK紅白歌合戦出場7回(1977年、1978年、1980年 - 1984年)、日本レコード大賞最優秀新人賞ほか1977年の新人賞多数



概要[編集]

高田みづえ(たかだ みづえ、1960年6月23日 - )とは、鹿児島県出身の元歌手である。1977年に16歳で「硝子坂」でデビューし、「私はピアノ」「潮騒のメロディー」などをヒットさせてNHK紅白歌合戦に7回出場。1985年に同郷の大関・若嶋津と結婚して芸能界を引退し、以後35年近く相撲部屋の女将として裏方に徹した。2026年3月に夫を亡くし、同年8月にNHK『うたコン』で一夜限りの復活を果たした。

詳細[編集]

「超えてる16才」の鹿児島娘[編集]

高田みづえは鹿児島県の薩摩半島南部、揖宿郡頴娃町(現在の南九州市)の出身。芸能界への入口はフジテレビのオーディション番組『君こそスターだ!』で、1976年に第18代グランドチャンピオンに輝いた。オーディション番組出身の新人が次々と生まれた時代で、「スター誕生!出身」と紹介されることもあるが、優勝したのはフジテレビ側の番組である。

1977年3月25日、テイチク(ユニオンレコード)から「硝子坂」でデビュー。キャッチフレーズは「超えてる16才」だった。作詞・島武実、作曲・宇崎竜童というロック寄りの作家陣による曲は、どこか大人びた歌声と相まって、同期のアイドルとはひと味違う印象を残した。「硝子坂」はオリコンTOP10入りし、売上は約31万枚。続く「だけど…」(最高6位)、「ビードロ恋細工」もTOP10入りし、1年目のシングル3枚がいずれも20万枚を超えた。

同期デビューには榊原郁恵、清水由貴子らがおり、高田を含めた3人は「フレッシュ三人娘」と呼ばれた。この年の新人賞レースでは日本レコード大賞最優秀新人賞、FNS歌謡祭最優秀新人賞、東京音楽祭のシルバーカナリー賞などを総なめにし、デビュー1年目にして紅白歌合戦にも初出場している。新人が1年目に紅白に選ばれるのは当時も珍しいことだった。

サザンの曲で迎えた最大のヒット[編集]

1980年、サザンオールスターズのアルバム曲を桑田佳祐の作詞・作曲のままカバーした「私はピアノ」が、オリコン最高5位の自身最大のヒットになった。サザンの原曲は原由子がボーカルを取る曲で、高田版はピアノの音色を恋心に重ねた歌詞を、しっとりとした歌謡曲として聴かせた。この曲で日本歌謡大賞の放送音楽賞を受賞している。

この年は山口百恵が結婚引退し、松田聖子や河合奈保子がデビューするなど、アイドルの世代交代が一気に進んだ年でもある。その中で高田は「アイドル」から「歌い手」へと軸足を移し、紅白には1980年から5年連続で出場した。1983年には再び桑田佳祐の楽曲「そんなヒロシに騙されて」がオリコン6位のヒットとなり、桑田作品と相性のいい歌手というイメージが定着した。スポーツ誌『Number』の記事では、「私はピアノ」と「そんなヒロシに騙されて」で日本レコード大賞の金賞を2度受賞したと紹介されている。

大関・若嶋津との結婚[編集]

夫となる若嶋津六夫は、鹿児島県種子島出身の力士。幕内に上がったころ、雑誌の取材で理想の女性を聞かれて高田みづえの名を挙げていたファンだった。2人は結婚の約3年半前、雑誌の対談企画で初めて顔を合わせ、すぐに意気投合したとされる。

1984年の暮れには結婚報道が出たが、若嶋津側は否定した。その年の紅白で「秋冬」を歌った高田は途中で声を詰まらせ、森光子、水前寺清子、森昌子らに支えられながら歌い切った。この場面は報道の真偽をめぐって大きな話題になった。

1985年2月に婚約を発表し、同時に芸能界引退を表明。6月1日の東京厚生年金会館、6月2日の大阪フェスティバルホールでラストコンサートを行い、6月5日の『夜のヒットスタジオ』が最後のテレビ出演となった。挙式は9月27日、ホテルニューオータニの神前式場で行われ、テレビ中継された披露宴の視聴率は関東地区で30.2%を記録した。当時25歳。

「薩摩おかみ」として32年[編集]

若嶋津は1987年7月に現役を引退して年寄・松ヶ根を襲名し、1990年に千葉県船橋市に松ヶ根部屋を開いた。最初の弟子はわずか3人。高田はここから2022年まで、約32年間にわたって部屋のおかみを務めた。

おかみ時代の高田は、メディアにほとんど出なかった。本人は「まだ、どうしても私の名前が目立ってしまうから」と話し、「徹底的に裏方に徹してやろう」と決めていたという。小柄で明るく、エプロンかジーンズ姿で部屋を切り盛りする姿から「薩摩おかみ」と呼ばれ、夫からは「ジーンズを新調しないと」とからかわれていたというエピソードもある。地元の町内会役員やPTA役員も務め、相撲部屋のおかみであると同時に、ごく普通の地域の母親でもあった。

部屋からは松鳳山ら複数の幕内力士が育った。2014年12月、夫が一門の総帥格の名跡「二所ノ関」を襲名し、部屋も二所ノ関部屋に改称。高田は名門部屋のおかみになった。

経歴[編集]

1960年代〜1976年:鹿児島で育つ[編集]

  • 1960年6月23日、鹿児島県揖宿郡頴娃町に生まれる。
  • 1976年、フジテレビ『君こそスターだ!』で第18代グランドチャンピオンとなる。

1977年〜1979年:新人賞総なめ[編集]

  • 1977年3月25日、「硝子坂」でデビュー。続く「だけど…」「ビードロ恋細工」もヒットし、デビュー曲から3作連続でオリコンTOP10入り。
  • 1977年、日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ、FNS歌謡祭最優秀新人賞、日本テレビ音楽祭、銀座音楽祭、新宿音楽祭などで新人賞を受賞。第28回NHK紅白歌合戦に「硝子坂」で初出場。
  • 1978年、「花しぐれ」で4作連続のオリコンTOP10入り。3月には大阪・フェスティバルホールと東京・渋谷公会堂で初のコンサートを開く。第29回紅白に出場。
  • 1979年、「潮騒のメロディー」がロングヒット。この年は紅白に選ばれなかった。

1980年〜1985年:歌い手としての黄金期と引退[編集]

  • 1980年、「私はピアノ」が自身最大のヒット。日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。2月21日の『ザ・ベストテン』(TBSテレビ)では高知県・桂浜からの中継で「潮騒のメロディー」を歌った。第31回紅白に出場し、ここから5年連続出場。
  • 1981年、「涙のジルバ」「夢伝説〜ペルシャン ブルー〜」などを発表。B面の「真夜中のギター」もヒットした。
  • 1982年、谷村新司の作詞・作曲による「ガラスの花」を発表。
  • 1983年、「そんなヒロシに騙されて」がオリコン6位のヒット。
  • 1984年、第35回紅白で「秋冬」を歌唱。これが最後の紅白出場となる。
  • 1985年2月、大関・若嶋津との婚約と引退を発表。ラストシングルは、さだまさしの作詞・作曲による「カーテン・コール」。6月にラストコンサートを行い、9月27日に挙式。

1987年〜2013年:松ヶ根部屋のおかみ[編集]

  • 1987年7月、夫が現役を引退し、年寄・松ヶ根を襲名。
  • 1990年、千葉県船橋市に松ヶ根部屋を創設。おかみとして部屋を支える。
  • 2007年、フジテレビ『Dの劇場』に出演し、約20年ぶりにテレビのスタジオ収録に登場。
  • 2009年〜2010年、『8時だョ!全員集合』関連の特番やフジテレビ『カスペ!』にVTR出演。

2014年〜2024年:二所ノ関部屋から女将引退へ[編集]

  • 2014年、日本テレビ『行列のできる法律相談所』で明石家さんまと約30年ぶりにテレビ共演。12月、夫が「二所ノ関」を襲名し、部屋は二所ノ関部屋に。
  • 2015年8月8日、NHK『第47回思い出のメロディー』に出演し、「硝子坂」「私はピアノ」を歌唱。NHKホールの舞台に立つのは1984年の紅白以来31年ぶりだった。
  • 2016年、『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演。
  • 2017年、出身地の南九州市から観光大使を委嘱される。10月、夫が船橋市内の路上で自転車ごと倒れて頭を強打し、緊急手術を受ける。一時は意識不明の重体と報じられたが、その後回復に向かった。
  • 2021年1月、デビュー45周年を記念して、テイチクから現役時代の全183曲がサブスクリプション配信される。12月、夫の定年を前に、元横綱・稀勢の里の荒磯親方との名跡交換が承認される。
  • 2022年1月、初場所後に夫が定年を迎え、おかみを引退。旧二所ノ関部屋は元関脇・玉乃島の放駒親方が継いで放駒部屋となった。
  • 2023年7月、再雇用で部屋付き親方を務めていた夫が協会を退職。

2025年〜2026年:夫との別れと一夜限りの復活[編集]

  • 2026年3月15日、夫の日高六男(元大関・若嶋津)が千葉県内の病院で肺炎のため死去。69歳。
  • 2026年3月24日、千葉県市川市で告別式が営まれ、喪主を務める。日本相撲協会の八角理事長(元横綱・北勝海)ら約300人が参列した。
  • 2026年8月18日、NHKが『うたコン』8月25日放送回で「一夜限りの復活SP」として高田がスタジオ生出演すると発表。番組公式Xでの告知に、ネット上では「これは録画」といった声があがった。
  • 2026年8月25日、『うたコン』に出演。「硝子坂」と「私はピアノ」を生歌唱する予定と告知され、NHKのアーカイブ映像や過去の紅白の秘蔵映像を交え、夫を亡くした悲しみや再び歌う決意に至った思いを語る構成とされた。親交のある榊原郁恵と岩崎宏美もゲスト出演した。夕刊紙では、周囲の勧めを受けての出演だったと報じられている。

歌手活動[編集]

主なシングル[編集]

  • 1977年「硝子坂」(作詞:島武実、作曲:宇崎竜童)
  • 1977年「だけど…」(作詞:島武実、作曲:宇崎竜童)
  • 1977年「ビードロ恋細工」(作詞:島武実、作曲:宇崎竜童)
  • 1978年「花しぐれ」(作詞:松本隆、作曲:都倉俊一)
  • 1978年「パープル・シャドウ」(作詞:松本隆、作曲:都倉俊一)
  • 1978年「女ともだち」(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)
  • 1979年「潮騒のメロディー」(作詞・作曲:フランク・ミルズ)
  • 1980年「私はピアノ」(作詞・作曲:桑田佳祐)
  • 1981年「涙のジルバ」(作詞・作曲:松宮恭子)
  • 1981年「夢伝説〜ペルシャン ブルー〜」(作詞:竜真知子、作曲:馬飼野康二)
  • 1982年「愛の終りに」(作詞・作曲:花岡優平)
  • 1982年「ガラスの花」(作詞・作曲:谷村新司)
  • 1983年「通りすぎた風」(作詞:横須賀恵、作曲:谷村新司)
  • 1983年「そんなヒロシに騙されて」(作詞・作曲:桑田佳祐)
  • 1984年「秋冬」(作詞:中山丈二、作曲:堀江童子)
  • 1984年「原宿メモリー」(作詞:三浦徳子、作曲:新田一郎)
  • 1985年「カーテン・コール」(作詞・作曲:さだまさし)

1977年から1985年までに発表したシングルは26枚。その全作がオリコン100位以内に入り、オリコンTOP10入りは6作を数える。作家陣は宇崎竜童、松本隆、筒美京平、都倉俊一、阿久悠、桑田佳祐、谷村新司、松山千春、さだまさしと、昭和の歌謡界とニューミュージックの大物がずらりと並ぶ。阿久悠作詞の「幸福イミテーション」「純愛さがし」、松山千春作の「青春2」なども歌っている。

作品の楽しみ方[編集]

1998年にはCD6枚組の『高田みづえ全集』が発売された。2021年1月にはデビュー45周年を記念して、現役時代の全183曲がテイチクからサブスクリプション配信されている。

紅白歌合戦[編集]

NHK紅白歌合戦には通算7回出場した。

  • 1977年 第28回 ― 初出場、「硝子坂」
  • 1978年 第29回
  • 1980年 第31回
  • 1981年 第32回
  • 1982年 第33回
  • 1983年 第34回
  • 1984年 第35回 ― 「秋冬」

1979年の第30回だけ出場を逃しており、1980年から引退前年の1984年まで5年連続で出場した。2026年の『うたコン』ではNHKに残る紅白の秘蔵映像も紹介された。夕刊紙には、同年の紅白で高田が目玉企画のひとつになるのではないかという見方を伝える記事も出ているが、出演は発表されていない(2026年10月時点)。

受賞歴[編集]

  • 1977年 第19回日本レコード大賞 最優秀新人賞
  • 1977年 FNS歌謡祭 最優秀新人賞
  • 1977年 東京音楽祭 シルバーカナリー賞
  • 1977年 日本テレビ音楽祭 新人賞
  • 1977年 銀座音楽祭 グランプリ
  • 1977年 新宿音楽祭 金賞
  • 1977年 横浜音楽祭 新人特別賞
  • 1977年 日本歌謡大賞 放送音楽新人賞
  • 1977年 全日本有線放送大賞 新人賞
  • 1977年 全日本歌謡音楽祭 最優秀新人賞
  • 1980年 日本歌謡大賞 放送音楽賞(「私はピアノ」)

女将としての活動[編集]

相撲部屋のおかみは、親方の妻として力士の食事や健康管理、後援会とのつきあい、冠婚葬祭の手配まで、部屋の生活面をまるごと引き受ける立場である。高田は1987年に夫が親方になってから、1990年の松ヶ根部屋創設、2014年の二所ノ関部屋への改称を経て、2022年1月の夫の定年まで裏方を務めた。

部屋の立ち上げ当初は、弟子3人とマネージャー役の元力士だけという小さな所帯だった。歌手時代の知名度は部屋の宣伝になりそうに思えるが、本人はむしろハンディキャップだと感じていたという。「おかみの高田みづえ」が前に出ると力士より目立ってしまうため、取材もほとんど受けなかった。2022年に『Number』でおかみ引退を報じた相撲ライターも、初めて取材できたのは約25年前だったと書いている。

2017年に夫が転倒事故で頭部の手術を受けてからは、リハビリを支えながら部屋の運営を続けた。2019年に一山本が十両に昇進した際の写真には、両手を挙げて喜ぶ夫の傍らに写っている。2022年1月、夫の定年に伴って部屋は放駒部屋に引き継がれ、高田もおかみを退いた。

家族[編集]

  • 夫:若嶋津六夫(本名・日高六男、1957年 - 2026年)。元大関で、1984年に春場所と名古屋場所(全勝)の2度優勝。現役時代の異名は「南海の黒ひょう」。引退後は松ヶ根、二所ノ関、荒磯を名乗り、日本相撲協会の理事も務めた。2026年3月15日に肺炎のため死去。夫婦生活は約40年に及んだ。
  • 子:一男一女がいる。長男は元俳優、長女はタレント・モデルとして活動しており、2015年のTBSの番組や2016年の『徹子の部屋』では長女と共演している。夫の告別式では2人も遺族として言葉を述べた。

人物[編集]

  • 歌手時代は日本テレビ系の『カックラキン大放送!!』にレギュラー出演し、『8時だョ!全員集合』にもたびたびゲスト出演した。バラエティでも明るいキャラクターで親しまれた。
  • 明石家さんまはフジテレビ『クイズ・ドレミファドン!』で「みづえカムバック!」と叫んだことがあるという。2014年の『行列のできる法律相談所』で約30年ぶりの共演が実現した。
  • 引退後は「裏方に徹する」姿勢を崩さず、芸能活動はごく限られた特番出演にとどまった。2023年時点でも目立った芸能活動はしていなかった。
  • 夫の告別式では、生前の夫が「俺は相撲しか知らない。相撲人生だった」とよく口にしていたことを明かした。

余談[編集]

  • 結婚報道の渦中だった1984年の紅白で「秋冬」を歌った際、声を詰まらせて先輩歌手たちに支えられた場面は、昭和の紅白の名場面のひとつとしてたびたび語られる。
  • 披露宴中継の視聴率30.2%は、芸能人と力士の結婚がどれほど国民的な話題だったかを物語る数字である。
  • 夫・若嶋津は東京ヤクルトスワローズのファンとしても知られていた。
  • 1980年の『ザ・ベストテン』で、高知県・桂浜からの中継で「潮騒のメロディー」を歌ったことがある。
  • 夫が亡くなる前日、相撲中継を見ていた夫から「お母さん、相撲に行かなくていいの?」と声をかけられたという。高田は告別式で「最後は本当に穏やかで」と振り返った。
  • 2015年の『思い出のメロディー』も2026年の『うたコン』も、いずれも「一夜限り」の出演だった。ネット上ではそのたびに、コンサートやツアーを望む声があがっている。

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