| 林芙美子 Hayashi Fumiko | |
|---|---|
![]() 林芙美子(出典:ウィキメディア・コモンズ、PD) | |
|
福岡県直方市・須崎町公園に立つ林芙美子像と文学碑(出典:ぱくたそ、フリー素材) | |
| 本名 | 林フミコ |
| 誕生日 | 1903年12月31日 |
| 死亡日 | 1951年6月28日 |
| 死亡年齢 | 47歳 |
| 出身地 | 山口県下関市説・福岡県門司市(現・北九州市門司区)説あり(出生届は鹿児島市) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 夫・手塚緑敏(画家)、養子・泰 |
| 身長 | 140cm少々とされる |
| 学歴 | 尾道市立高等女学校卒業 |
| 職業 | 小説家、詩人 |
| 活動期間 | 1928年 - 1951年 |
| 代表的な実績 | 『放浪記』『風琴と魚の町』『清貧の書』『晩菊』『浮雲』『めし』 |
| 受賞 | 女流文学者賞(1948年、『晩菊』) |
| 関連活動 | 従軍作家(日中戦争・太平洋戦争期) |
| 別名 | 秋沼陽子(初期の投稿時の筆名) |
| その他 | 戒名は純徳院芙蓉清美大姉 |
| リンク | 新宿区立林芙美子記念館 |
概要[編集]
林芙美子(はやし ふみこ、1903年12月31日 - 1951年6月28日)とは、日本の小説家・詩人である。行商の両親と木賃宿を渡り歩いた少女時代と、上京後の貧乏暮らしを日記体でつづった『放浪記』で一躍ベストセラー作家となり、戦後は『晩菊』『浮雲』などで女の生と男女のすれ違いを描いた。「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」の言葉でも知られる。
詳細[編集]
「放浪」そのものの人生[編集]
林芙美子の人生は、代表作のタイトルどおり「放浪」の連続だった。生まれた場所からしてはっきりしない。本人は「下関生まれ」と書き、語ってもいたが、没後20年余りたってから門司市小森江(現・北九州市門司区)を生誕地とする説が発表された。さらに出生届は叔父の家がある鹿児島市で出されており、届け上の誕生日は1903年(明治36年)12月31日。本人は明治37年生まれ、誕生日は5月5日などとも書いていて、作家本人の「自称」と記録がそもそも一致しないのである。
幼いころは若松、直方、そして山陽地方の木賃宿を、行商をする両親とともに転々とした。13歳でようやく落ち着いたのが広島県の尾道で、ここで約6年間を過ごす。芙美子にとって尾道は「ふるさと」に最も近い町となり、『放浪記』にも尾道の海が印象的に登場する。
貧乏のどん底から流行作家へ[編集]
19歳で上京してからは、女中、銭湯の下足番、事務員、工場の女工、売り子、カフェの女給と、とにかく職を転々とした。その間につけていた日記「歌日記」が、のちの『放浪記』の原型になる。
転機は1928年。長谷川時雨が主宰する雑誌『女人芸術』に詩が掲載され、同年10月から『放浪記』の連載が始まった。1930年に改造社から単行本『放浪記』『続放浪記』が出るとベストセラーとなり、芙美子は一夜にして流行作家の仲間入りを果たした。出版社に原稿を持ち込んでも相手にされず、飢える一歩手前だった若い女性が、その「飢え」を書いたことで売れっ子になったわけだ。
戦争、そして戦後の大爆発[編集]
人気作家となった芙美子は、日中戦争期には新聞社の特派員や内閣情報部の「ペン部隊」の一員として中国大陸に渡り、太平洋戦争期には陸軍報道部の報道班員として東南アジアに滞在した。この従軍作家としての活動は、現在も評価が分かれるテーマである。
戦後は依頼をほとんど断らずに書きまくり、1948年の『晩菊』で女流文学者賞を受賞。晩年には9本もの中長編を新聞・雑誌に並行連載するという凄まじいペースで書き続けた。その果てに1951年6月28日、47歳で急逝。代表作『浮雲』の刊行と、朝日新聞連載中だった『めし』の未完を残しての死だった。
経歴[編集]
少女時代(1903〜1916年)[編集]
- 1903年12月31日:出生届上の誕生日。出生地は下関説・門司説がある。
- 1907年:一家が若松市(現・北九州市若松区)へ移る。
- 1910年:母が番頭の沢井喜三郎とともに家を出て、芙美子も母について行く。以後、喜三郎が養父となる。
- 1914年:喜三郎の古着屋が倒産。11歳で鹿児島の本籍地に預けられ、のち行商をする両親と山陽地方の木賃宿を転々とする。同年10月、炭鉱町の直方へ。
- 1916年:13歳で尾道に落ち着く。
鹿児島県の資料によれば、10歳のころに一人で鹿児島に戻され、山下小学校で過ごしたとされる。転校を重ねた少女時代は、芙美子自身の作品の重要な素材になっていく。
尾道時代(1916〜1922年)[編集]
尾道では、尾道第二尋常小学校を2年遅れで卒業し、1918年に尾道市立高等女学校へ進学した。学費は向島の帆布工場でのアルバイトで稼いだという。女学校時代の恩師・小林正雄との出会いは大きく、のちに筆名「芙美子」を名乗るよう勧めたのもこの小林である。
18歳ごろには「秋沼陽子」の筆名で地方紙に詩や短歌を投稿していた。この頃、因島の船主の長男で旧制中学生の岡野軍一と交際している。岡野は明治大学に進学し、芙美子は彼を頼って上京するが、岡野は卒業後に家の決めた縁談で別の女性と結婚してしまう。
上京と職の転々(1922〜1928年)[編集]
1922年、19歳で上京。小石川区雑司ヶ谷に住み、住み込み女中、銭湯の下足番、しおりの絵付けの内職、株屋の事務員などを転々とした。1923年9月の関東大震災では尾道や四国に避難している。
1924年に再上京してからは、セルロイド人形の工場、毛糸店の売り子、牛鍋屋やカフェの女給などを経験した。本駒込の書店「南天堂書房」に集まる詩人たちとも交流し、ここで平林たい子らと知り合っている。1926年、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、以後緑敏は終生、芙美子の執筆を支えた。
『放浪記』でブレイク(1928〜1933年)[編集]
- 1928年2月:『女人芸術』に詩「黍畑」が掲載される。
- 1928年10月〜1930年10月:『放浪記』を同誌に20回連載。
- 1929年6月:友人たちの寄金で、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版。
- 1930年:改造社から『放浪記』『続放浪記』を刊行し、ベストセラーに。印税で中国へ一人旅。
- 1931年11月:朝鮮・シベリア経由でパリへ一人旅。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国。
- 1933年:共産党へのカンパを約束したとの嫌疑で中野警察署に留置される。
1931年の『風琴と魚の町』、1933年の『清貧の書』も評判を呼び、1935年の短編『牡蠣』は本格的な小説として高く評価された。「日記の人」から「小説家」への脱皮である。
従軍作家として(1937〜1945年)[編集]
1937年、毎日新聞(当時の東京日日新聞・大阪毎日新聞)の特派員として南京攻略戦に赴く。1938年9月には、内閣情報部が組織した作家の従軍団「ペン部隊」の一員として大陸へ渡った。このとき女性作家は林と吉屋信子の2人だけだった。同年10月には陥落直後の漢口に「一番乗り」し、その従軍記は10月31日付の東京朝日新聞に掲載されている。
1940年からは文芸銃後運動の全国講演会にも参加。一方で1941年8月には『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けている。1942年10月から1943年5月までは陸軍報道部の報道班員として、シンガポール、ジャワ、ボルネオに滞在した。1944年4月からは長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開し、1945年10月に東京へ戻った。
国策に協力した従軍作家としての側面は、戦後になって批判的に論じられることもあり、桐野夏生の小説『ナニカアル』(2010年)はこの南方滞在期を題材にしている。
戦後の多作と急逝(1945〜1951年)[編集]
戦後、出版界が動き出すと、芙美子は執筆依頼をほとんど断らずに次々と作品を発表した。1948年『晩菊』で女流文学者賞を受賞。1949年から1951年にかけては、9本の中長編を並行して連載するという超過密スケジュールだった。1950年には『浮雲』のラストシーンの舞台とするため屋久島を訪れたが、この旅行の後から体力の衰えが目立つようになったという。
1951年6月24日にはNHKラジオの生放送にゲスト出演し、女子大生と質疑応答をしている。6月27日夜には『主婦の友』の連載企画「名物食べ歩き」の取材で料亭を2軒回った。そして翌28日未明、下落合の自宅で心臓麻痺により急逝した。47歳。死の数時間前まで仕事をしていたことになる。
代表作[編集]
| 発表年 | 作品名 | 種別 | メモ |
|---|---|---|---|
| 1928〜1930 | 『放浪記』 | 日記体の自伝的小説 | 『女人芸術』連載。1930年に改造社から刊行し大ベストセラー |
| 1929 | 『蒼馬を見たり』 | 詩集 | 友人の寄金で自費出版 |
| 1931 | 『風琴と魚の町』 | 小説 | 行商の家族と少女を描く。田辺聖子が「入門の一冊」に推した |
| 1933 | 『清貧の書』 | 小説 | 貧しい夫婦の暮らし |
| 1935 | 『牡蠣』 | 短編小説 | 本格的な小説として評価された転機の作品 |
| 1948 | 『晩菊』 | 短編小説 | 女流文学者賞 |
| 1951 | 『浮雲』 | 長編小説 | 晩年の代表作。芙美子文学の集大成とされる |
| 1951 | 『めし』 | 長編小説(未完) | 朝日新聞連載中に作者が急逝し絶筆 |
『放浪記』[編集]
自身の日記をもとにした自伝的作品で、職を転々としながら、男に裏切られ、腹をすかせ、それでも詩を書き続ける「私」の日々がつづられる。悲惨な境遇を描いているのに、文体はどこか明るく、たくましく、時に笑える。この「どん底なのにへこたれない」語り口が、昭和初期の読者に爆発的に受けた。
連載当時から版を重ね、戦後に改稿版も出され、現在は新潮文庫などで読める。小説としてだけでなく、舞台・映画・ドラマの原作として繰り返しよみがえった点でも、日本の近代文学のなかで特異な存在だ。
『浮雲』[編集]
戦時中、義弟との不倫関係から逃れるように仏印(現在のベトナムなど)へ渡ったゆき子が、農林研究所員の富岡と出会う。南国で過ごした甘い時間を忘れられない2人は、敗戦後の焦土の東京で再会するが、かつてのようには愛し合えない。そして最後、2人は雨の屋久島へたどり着く。
戦争に翻弄された男女の、どうしようもない腐れ縁を描いた虚無的な物語で、芙美子文学の集大成とされる。作家の田辺聖子は本作を芙美子の「最高到達点」と評した。新潮社の新潮文庫版は1953年の発売以来のロングセラーである。屋久島には林芙美子記念碑が建てられている。
『晩菊』と『めし』[編集]
『晩菊』は、かつて芸者として鳴らした中年女性のもとに、昔の恋人が訪ねてくる一夜を描いた短編。老いと金と恋をクールに見つめる筆致が評価され、女流文学者賞を受賞した。
『めし』は1951年4月1日から朝日新聞で連載が始まった長編で、倦怠期を迎えた夫婦を描く。予定は150回だったが、作者の急死により97回で終わり、全体の約3分の2を書いたところで絶筆となった。
映画・舞台・ドラマ化[編集]
成瀬巳喜男との名コンビ[編集]
林芙美子作品を最も多く、最も見事に映画化したのが成瀬巳喜男監督である。成瀬は芙美子の死の直後、1951年11月23日公開の『めし』(主演・原節子)を撮り、未完の原作の結末をアレンジしてまとめ上げた。この脚色には川端康成が監修として関わっている。
その後も成瀬は『稲妻』『妻』、杉村春子主演の『晩菊』(1954年)、そして1955年の浮雲を東宝で手がけた。『浮雲』は高峰秀子がゆき子、森雅之が富岡を演じ、脚本は水木洋子。キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、ブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞を獲得し、日本映画史上の名作として今も上位に挙げられる。小津安二郎が「俺にできないシャシンは溝口の『祇園の姉妹』と成瀬の『浮雲』だけだ」と語ったとされるのは有名な話だ。
1962年には成瀬監督・高峰秀子主演で『放浪記』も映画化された(宝塚映画製作、東宝配給)。『放浪記』は1935年にもP.C.L.映画製作所によって映画化されており、何度もスクリーンに登場している。
森光子の舞台『放浪記』[編集]
小説以上に『放浪記』の名を国民的なものにしたのが、森光子主演の舞台版である。脚本・演出は東宝の演劇を率いた菊田一夫で、1961年10月に東京の芸術座で初演。8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞などを受賞した。
名物は、自分の小説の新聞広告を見た芙美子が喜びのあまり舞台上で「でんぐり返し」をする場面。森光子のトレードマークとなったが、体調を考慮して2008年1月のシアタークリエ公演から万歳に変更され、「でんぐり返し封印」と報じられた。2009年5月9日、森の89歳の誕生日に上演2000回を達成し、同月29日までに通算2017回を記録している。芸術座は2005年の公演を最後に閉館し、その後は帝国劇場やシアタークリエで上演された。
森の後を継いだのは仲間由紀恵で、2015年の公演ではでんぐり返しの代わりに側転を披露した。本人のアイデアで「私なりに喜びの気持ちを爆発させる姿を表したい」と語っている。
テレビドラマ[編集]
ほかに『晩菊』も1960年にNET(現・テレビ朝日)系列の「NECサンデー劇場」でドラマ化されている。
人物・エピソード[編集]
- 小柄で、身長は140cm少々だったとされる。
- 色紙に好んで書いた言葉が「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」(「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の表記も流布)。芙美子の代名詞のような一句である。
- 1939年、朝日新聞連載の小説『波濤』の出版記念に、陶芸家・富本憲吉(のちの人間国宝)デザインの八角形の灰皿を配った。この灰皿は現在、新宿区立新宿歴史博物館が所蔵している。
- 下落合の自宅を建てる際には建築の勉強に打ち込み、客間よりも茶の間、風呂、厠、台所にこだわったという。暮らしの場を何より大切にした人らしいエピソードである。
- 同性の作家に対して強い競争意識を持っていたとされ、露骨な排他的態度が周囲の不評を買ったとも伝えられる。告別式での川端康成の異例の弔辞(後述)は、こうした評判を踏まえたものだった。
川端康成の弔辞[編集]
1951年7月1日、自宅で行われた告別式の葬儀委員長は川端康成だった。川端は弔辞のなかで「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが(略)どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」と述べた。故人を褒め称えるのが普通の弔辞で「許してほしい」と頼んだこの言葉は、林芙美子という作家の激しさを物語るエピソードとして今も語り継がれている。
墓所は東京・中野の萬昌院功運寺。戒名は純徳院芙蓉清美大姉。
家族[編集]
- 夫:手塚緑敏 - 画家。1926年に内縁の結婚をし、以後芙美子の生活と執筆を支え続けた。下落合の家では、芙美子名義の生活棟と緑敏名義のアトリエ棟が並んで建てられた。
- 養子:泰 - 1943年に新生児として迎えた。1959年に事故で亡くなっている。
- 母:キク - 告別式の写真にも、緑敏、泰らとともに写っている。
評価・影響[編集]
林芙美子は、貧困と放浪を「売り物」にした私小説作家というイメージで語られがちだが、晩年の『晩菊』『浮雲』では、戦争と敗戦をくぐり抜けた女性の生を冷静に見つめる本格的な作家として高く評価されている。田辺聖子は入門として『風琴と魚の町』を、最高到達点として『浮雲』を挙げた。
その生涯自体も多くの作家の創作意欲をかき立ててきた。井上ひさしは評伝劇『太鼓たたいて笛ふいて』(2002年上演)で、従軍作家として戦争の時代を生きた芙美子の姿を描いた。桐野夏生の『ナニカアル』(2010年)は、南方従軍時代の芙美子を主人公にした小説である。与謝野晶子、樋口一葉らと並び、明治〜昭和を代表する女性文学者の一人として名前が挙がる。
ゆかりの地[編集]
新宿区立林芙美子記念館[編集]
東京都新宿区の下落合(中井)にある、芙美子が1941年から亡くなる1951年まで、生涯最後の約10年を過ごした旧宅を公開した記念館。1939年に土地を購入し、建築家・山口文象の設計で建てられた。数寄屋造りの繊細さと京風の特色に、民家風のおおらかさを合わせた住まいで、生活棟とアトリエ棟を別々に建ててつなぎ合わせた構造になっている。書斎や茶の間など、作家の暮らしぶりをそのまま感じられる貴重な場所だ。
尾道[編集]
少女時代を過ごした尾道には、本通り商店街の入口に林芙美子像がある。着物姿でしゃがみ、傍らに旅行鞄と傘を置いて海の方を向いた姿で、前の石碑には『放浪記』の一節「海が見えた 海が見える 五年振りに見る尾道の海は なつかしい」が刻まれている。近くにはかつての住まいを公開した「おのみち林芙美子記念館」もある。
門司・直方・鹿児島・信州・屋久島[編集]
- 門司:旧門司三井倶楽部の2階に「林芙美子記念室」があり、原稿や書簡、日記など約150点の資料で生涯と作品を紹介している(福岡県北九州市)。
- 直方:行商時代に暮らした町で、須崎町公園に林芙美子像と文学碑がある。
- 鹿児島:古里町(桜島)に「林芙美子文学碑」がある。
- 角間温泉(長野県山ノ内町):疎開先の建物の二階が林芙美子文学館になっている。
- 屋久島:『浮雲』のラストの舞台。林芙美子記念碑がある。
生誕地とされる場所が複数あるうえ、各地を転々とした人生のおかげで、「ゆかりの地」が日本列島のあちこちに散らばっているのも芙美子らしいところだ。
余談[編集]
- 生年月日すら本人の主張(明治37年5月5日など)と出生届(明治36年12月31日)が食い違う。出生届の日付が大みそかなのも、なんとも芙美子らしい。
- 『放浪記』の印税が入ると、そのお金でさっそく中国へ一人旅し、翌年にはシベリア鉄道でパリまで一人で出かけた。「放浪」は売れっ子になってからも止まらなかった。
- 死の4日前にはNHKラジオの生放送に出演して女子大生の質問に答え、前夜には雑誌の食べ歩き取材で料亭をハシゴしていた。最後の最後まで現役の売れっ子だった。
- 森光子の『放浪記』2000回達成(2009年5月9日)の直後、森には国民栄誉賞の授与が発表された。林芙美子の青春が、半世紀後に一人の女優の代名詞になったわけだ。
- 2代目の仲間由紀恵版では、伝説の「でんぐり返し」が「側転」にアップデートされた。
